1998年2月、大統領就任式での故金大中大統領と李姫鎬夫人=(聯合ニュース)
1998年2月、大統領就任式での故金大中大統領と李姫鎬夫人=(聯合ニュース)
【ソウル18日聯合ニュース】大韓民国第15代大統領を務めた金大中(キム・デジュン)元大統領が、18日午後1時42分に逝去した。
 金元大統領は先月13日に肺炎のため延世大学新村セブランス病院に入院し、集中治療室で治療を受けていた。症状が好転し、一度は一般病室に移されたが、再び肺塞栓(へいそく)を発症、人工呼吸器を装着したまま治療を受けていた。臨終は李姫鎬(イ・ヒホ)夫人と3人の息子夫婦ら家族、側近がみとった。
 金元大統領は1925年、全羅南道・新安の農家で4男2女の二男として生まれた。木浦商業高校卒業。木浦日報社長を経て、民主党代議士だった1963年に木浦から第6代国会議員として初当選を果たし、第7代、8代、13代、14代国会議員を務めた。
 1971年の大統領選挙に新民党候補として出馬したが、共和党の朴正熙(パク・チョンヒ)候補に惜敗したのに次ぎ、1987年と1992年にも落選した。1997年、ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補を退け、第15代大統領に当選した。
 1972年に朴正熙政権による維新体制が登場してから、1987年6月の民主化抗争で民主化が実現するまでは、軍部独裁政権により反体制人物と見なされ、何度も投獄、収監され、海外で亡命生活を送るなどの苦難が続いた。1980年5月には、新軍部の非常戒厳拡大措置に対し学生を背後で扇動した容疑で拘束され、同年7月、光州民主化運動を事前指示したという内乱陰謀容疑で死刑宣告を受けた。しかし、国際社会の圧力で無期懲役に減刑、1982年に刑執行停止で釈放され、米国に渡った。1985年に第12代国会議員総選挙を前に帰国すると、金泳三(キム・ヨンサム)氏と民主化推進協議会共同議長として再び民主化抗争に乗り出した。
 1987年に直接選挙制で実施された第13代大統領選挙では、与党の候補一本化に失敗し、平和民主党を結成し大統領選に臨んだが、民政党の盧泰愚(ノ・テウ)候補と統一民主党の金泳三候補に次ぐ3番目の得票にとどまった。1992年の第14代大統領選挙で民主自由党の金泳三候補に破れると、政界引退を宣言した。しかし1995年に政界に復帰し、新政治国民会議を結成し4度目の大統領選に臨むことになった。この翌年に自由民主連合の金鍾泌(キム・ジョンピル)総裁との野党協力を打ち出し、ついに1997年の大統領選で当選、建国後初めて水平的政権交代を実現した。
 金元大統領は、民主化闘争と人権伸長、統一運動に生涯をささげ、独裁終息と民主主義の定着、朝鮮半島の平和醸成に大きく貢献したと評価される。特に大統領在任中は、朝鮮戦争後最大の国難とされた通貨危機を克服し、世界最高の情報化社会を作り上げた。また、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記との間で植民地支配解放後初の南北首脳会談を行い、南北和解協力の時代を開いた。その功労で韓国人として初めてノーベル平和賞を受賞している。
 こうした業績にもかかわらず、親日的、人事偏重という論争や対北朝鮮融和の「太陽政策」をめぐる保守層との葛藤(かっとう)が続き、任期中の国政運営は容易ではなかった。退任後も北朝鮮への秘密送金、国家情報院の違法盗聴事件などで側近が起訴されたほか、現実政治への介入で政界との摩擦も生じるなど、論争は絶えなかった。
 金元大統領の逝去で、1960年代以降に政治に多大な影響力を及ぼした、金泳三、金大中、金鍾泌のいわゆる「三金時代」も幕を下ろす。

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