梁英姫監督=(聯合ニュース)
梁英姫監督=(聯合ニュース)
ドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」を演出した、在日コリアン2世の梁英姫(ヤン・ヨンヒ)監督にソウル・三清洞のカフェで会った。監督としての才能がないことはよく分かっているとしながら、自分に武器があるとしたら、他人にはないストーリーを持っていることだと語った。梁監督は同作品の韓国封切りを来月3日に控え、15日から5日間の予定で韓国を訪れている。

 1964年に大阪で生まれた梁監督は、東京朝鮮大学を卒業後、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の高校で約2年間、国語教師として教壇に立った。済州島出身の両親は、その青春を朝鮮総連にささげた活動家だった。3人の兄は、北朝鮮帰還事業で10代で北朝鮮に渡り、現在も北朝鮮に暮らす。

 初めて演出した「ディア・ピョンヤン」(2005年)は、梁監督が自らの家族を描いた作品だ。困窮する北朝鮮住民の生活が間接的ながらうかがえるとして、朝鮮総連から強く批判された。2006年サンダンス映画祭で審査員特別賞を受賞するなど国際的に注目を集めたが、梁監督は北朝鮮当局から入国禁止措置を受けた。

 「『ディア・ピョンヤン』の制作に取り掛かった1995年から映画にして観客に見せるまで、10年間悩みました。もしかしたら北朝鮮に住む兄に被害があるかもしれないという懸念は大きかった。自問の末に結局、映画を作ることにしましたが、悔いたことはありません」。

 3人の兄が北朝鮮帰国船に乗ったのは、梁監督が6歳のことだった。「どこか遠くに行くんだという気がしました。2人のために歓送会をしたと思う」と、当時を振り返る。その後、兄妹が完全に異なる運命を歩むことになるとは、誰が予想しただろうか。

 2009年に亡くなった長兄は、北朝鮮での暮らしに不満をもらしたことは1度もなかったという。むしろ常に体制に適応しようと努力していた。そうした無理がたたったのではないかと話す。うつ病に苦しみ、突然の心臓発作で亡くなった。そうした兄たちの人生を目にし、「祖国のため、会社のために暮らすのではなく、自分自身のために生きようと決心した」と梁監督。

 日本で自由に育ちながら、学校に行けば故金日成(キム・イルソン)主席をたたえる教育を受けなければならなかった。両親は朝鮮総連の活動に夢中だった。幼い少女の心のなかで、さまざまな異なる思いが衝突することが多かったが、そんなときはいつも、映画と演劇が心を静めてくれた。

 教師を辞めた後、10代のころの安息の地だった演劇と映画の道に進んだ。演劇俳優としても活動した。そんなとき、親しい人たちから、日本人ばかりが北朝鮮のドキュメンタリーを作っても面白くない、当事者が直接作ってはどうかと提案された。それはいいと思い、テレビのドキュメンタリーの制作を始めた。
 物心つくようになってからは、北朝鮮で夢をあきらめ生きている兄たちの姿を見るにつけ胸が痛んだ。幼いころは平壌に行くたびに泣いていた。自分はそれでも自由に生きることができたが、兄たちの暮らしを思うとつらかった。
 それが、「30歳になったころ、図々しくなれたんです」と梁監督。人とは違う自分の家族は面白いと思えるようになり、ドキュメンタリーの制作に至った。北朝鮮入国禁止の措置は受けたが、それまでに撮影していたフィルムを利用し、「ディア・ピョンヤン」を制作した。「もしもあのとき、わたしが兄たちと一緒に(北朝鮮に)行っていたら、どう育ったろうと。そんな想像力で撮ったのが、『ディア・ピョンヤン』です」。

 映画は、北朝鮮に暮らす兄の娘ソンファの日常と、その家族の暮らしを伝える。当時3、4歳で家族皆に愛されていた小さなソンファが、今は立派な大学生となり、英語で書いた手紙をおばに送ってくるという。「めいたちはわたしが平壌に行くたびに、世界各地の話を聞きたがります。好奇心旺盛なのは、どこの若者も変わりません」。

 次回作も家族に関する作品だ。劇映画だが、やはり北朝鮮の話になる。「完全にわたしの経験に頼った映画なので、今回も朝鮮総連が嫌がるかもしれません。家族を守るには、わたし自身が有名になるしかないようですね(笑)」。

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