「Secret」左からソナ、ジウン、ジンガー、ヒョソン
「Secret」左からソナ、ジウン、ジンガー、ヒョソン
【ライジングスター】スターたちは、どんな時に芸能人を夢見て、どのように芸能界に初めて足を踏み入れたのだろうか。今回、「ライジングスター」と名付けたコーナーを用意し、スターたちのホットなデビュー過程はもちろん、人気を得るまでの過程を率直にリリースする。最近新曲「Shy Boy」、グループからのソロシングル「Crazy」で各種音楽プログラムで頂上をさらい、名実共に韓国国内最高のガールズグループに成長している「Secret(シークレット)」がその主人公だ。

Secret の最新ニュースまとめ

 「Secret」はソナ、ジウン、ジンガー、ヒョソンから成る4人組。韓国芸能界特有の制度である「練習生」として、長い間チャンスを伺いつつもデビューに縁の無かった苦労人だ。2009年10月に「I Want You Back」でデビューを飾るが、泣かず飛ばず。ようやく陽の目を見たのが翌年の2010年で、年末には新人賞も獲得し、そこから運気が急上昇。韓国では、Nikeや化粧品のCMも決定するなど、今最も注目を浴びるガールズグループのひとつだ。

 来る8月3日に「Madonna」で日本デビューを飾ることが決定した「Secret」。「シンデレラ系★半地下アイドル」と名付けられた彼女たちの軌跡とともに、メンバーごとの成長過程を8回に分けて紹介する。まずは、女性から絶大な人気を誇るリーダーのヒョソンから。

<b>■新聞配達で家計を支えた幼少時代</b>
 「Secret」のメンバー、チョン・ヒョソンはインタビューにおいて、とても恥ずかしがりながら、自身の幼少時代から話し始めた。
「三姉妹の次女です。姉と妹は家で生まれたのですが、わたしは唯一病院で生まれました。わたしが生まれた日、父と母方の祖父が空を見上げていると、流れ星が落ちてきたそうなんです。それで、星の漢字を入れた名前、ヒョソン(ヒョ星)になりました」

 忠北(チュンブク)・清州(チョンジュ)で建築業をしていた父のもとで、母、姉、ヒョソン、妹の5人が和やかに暮らしていたが、それほど裕福ではなかった。そのため、ヒョソンは幼い頃から両親の手伝いをしていたという。「小学校3年生から新聞配達を始めました。当時は家族皆が新聞配達をしていたため、その仕事に不慣れさは感じませんでした。夜明けの空気を感じながら、すごく気持ちよかったんですよ。3年間1日も休まずに働いていたので、背も大きくなったように感じ、よかったです(笑)」

 しかし、小学生の体で新聞配達をすることは容易ではない。「冬は寒すぎて泣きながら働いていました。ある日、新聞配達をするわたしの姿を見て、お小遣いをくれるおばさんがいました。断ると、お金をポケットに入れてきて、一緒に住まないかと言うんですよ。すごく怖くなって、母に言いました。そしたら母からは、その地区にはもう行くなと忠告を受けました」

 こうして集めた報酬はすべて両親に渡した。ヒョソン自身は月1万ウォンが少し超える程度の小遣いで生活した。しかし彼女はそれが当然だと思っていた。「当時、月1万2000ウォン(約900円)の小遣いをもらっていました。それを貯めて両親にプレゼントを買ったりもしました。小学生にはその程度の小遣いで十分ですよ」、「そのときは規則的な生活をしたいという思いが強くありました。特に、幼い頃から両親が苦労する姿を見ていたので、そんな思いにかられていたんだと思います」

 「ヒョソンはまだ若いですが、すごく大人なんですよ」という事務所関係者の言葉が耳に残った。

<b>■何度もオーディションを受けた学生時代</b>
 ヒョソンは幼少期から友人らに人気があった。理由はダンスと歌が好きだという“心”があったため。しかしそのときは、歌手になる夢すら抱いてはいなかった。「歌手になったらどうか」と考えるようになったのは、小学校6先生のころ。そこから具体化していき、不可能に思えた夢が現実的な夢へと変化した。「人前でダンスや歌を見せるのが好きでした。小学生の頃から友人の誕生日パーティーを率先して開いていました(笑)。当時大人気だった『S.E.S.』や『Fin.K.L(ピンクル)』先輩たちの歌やダンスを練習しました。そして、小学校6年のときに歌手になりたいと夢見るようになったのです。そのときから、歌手になる方法を真剣に考えるようになりました」

 中学生になったヒョソンは夢のためにさまざまな経験を積んでいく。「中学校でダンスクラブのリーダーになり、学園祭ではいつも公演を開いていました。市が主催する公演にもたくさん参加しました。当時はただただダンスが好きだったように思います」

 しかし、幼いヒョソンは自身の夢を両親に伝えることができなかった。不安定な歌手という職業に対して両親の反対が大きかったからだ。「中学生になるまでは両親に言えませんでしたが、オーディションを受けなければ夢を叶えることが難しいと思い、思い切って打ち明けました。高校1年生のとき、(オーディションを受けに)ソウルに行くための交通費を稼ぐため、アルバイトを始めました。中華料理屋で働いていたのですが、反対していた両親もその姿を見て、許してくれるようになりました」

 ヒョソンがひとりでソウルに上京したのは2005年の冬だった。さまざまなオーディションを駆け巡ったヒョソンに、初めてチャンスが訪れた。当時、「SHINHWA(シンファ/神話)」のマネジメントを受け持っていた会社の一次オーディションに合格したのだ。しかし、その幸せは束の間だった。ヒョソンは続けて行われた2次オーディションで脱落した。「ソウル・ロッテワールドで二次オーディションがあったのですが、観客の歓声がありませんでした。そのときに要領をつかみましたね。落ちなければわからないことがある…なぜダメだったのか、何が足りなかったのかを研究するようになりました」

 チャンスは再び訪れた。その年の5月に、同じマネジメント会社から全国オーディションの知らせを聞いた。「今回のチャンスは逃せない」という覚悟でオーディションに臨んだ。「大田(テジョン)でオーディションを開催するということを知り、チャンスだと思って清州(チョンジュ)から足を運びました。オーディションでは多くの候補者がBoA先輩のダンスを踊っていました。わたしはライバルと差別化を図るため、誰も踊っていなかったBoA先輩の『VALENTI』を選び、合格したんです」。翌日に行われた二次オーディションもヒョソンのためのステージとなった。彼女はダンスオーディション部門で堂々の1位となり、関係者たちの目を引いた。「その日が“父母の日”だったのですが、デパートの商品券をもらったんです。嬉しくて両親にプレゼントしました(笑)」

 これだけでは終わらなかった。冬のオーディションに参加したヒョソンにある関係者が「サバイバル番組『バトル神話』プロジェクトに参加してみないか」とオファーを寄せたのだ。これを機にソウルに上京した清州の少女に、チャンスはゆっくりと、そして運命的にやって来た。しかしヒョソンは夢を目の前にした現実に迷わなければならなかった。光栄なことだとは思っていたが、意外と悩む部分も多かったという。「学生でもありましたし、テレビ出演をしなくてはならないことにすごく悩みました。しかし、たくさん悩んだ末、参加を決心しました」

 計5期で構成された「バトル神話」でヒョソンは2期メンバーだった。当時、カン・ウォンレやキム・ワンソンら先輩歌手が審査員を務め、ヒョソンは200人以上の参加者たちとし烈なサバイバルを繰り広げ、最後まで生き残った。200人から30人、そして12人。脱落者が増える中、チョン・ヒョソンの名は最終12人に挙げられた。より驚いたことは、12人中女性は3人であったこと。「『バトル神話』プロジェクトを進めながら、性格が大きく変わりましたね。また、自分自身では余裕を見つけることができませんでした。なぜなら、生き残らなければならなかったから。普通の学生のように暇な時間を作る、その余裕がなかったのです。友人からは『ひどい』という言葉まで浴びせられましたよ」

 ヒョソンに追い打ちをかけたのは競争だけでなく、もうひとつの「宿題」があった。それは学業だ。「学校に通いながらプロジェクトに参加していたため、肉体的、精神的にも本当に大変でした。6か月間は早退もよくしました。当時の担任の先生にはよくしていただきました。先生や友人たちには申し訳ない気持ちでしたが、どれも諦めることができなかったのです。でも、成績は良かったんですよ(笑)」

 「バトル神話」プロジェクトを通し、ヒョソンは自ら多くのことに気づかされたという。新たな人々との出会い、その中で人との触れ方を学んだ。幼いヒョソンには最も大きな人生経験となった。それだけではない、ダンスや歌はもちろん、音楽に関する知識も積み重ねていった。「ついに最終6人に選ばれ、会社と専属契約を結ぶという日、本当に夢のようでした。テレビでわたしが泣くシーンも放送されましたね。周りに迷惑をかけてしまったことを挽回できる日が来たと感じ、すごく嬉しかったです」

 2006年、前所属事務所と専属契約を結び、ヒョソンは宿舎生活をスタートさせる。ソウルの学校に転校し、本格的に練習生として過ごすことになった。(記者:パク・コヌク)


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