「Secret」左からソナ、ジウン、ジンガー、ヒョソン
「Secret」左からソナ、ジウン、ジンガー、ヒョソン
【ライジングスター】来る8月3日に「Madonna」で日本デビューを飾ることが決定し、7月6日には東京で「Premium Debut LIVE」を開催する「Secret」のリーダー、ヒョソン。(この記事は「Secret」ヒョソン【1】から続いています)

Secret の最新ニュースまとめ

<b>■苦労の連続だった練習生時代</b>
 恵まれた練習生生活がスタートしたヒョソンであったが、その道は単純ではなかった。「Wonder Girls」のユビン、「After School」のユイとともに宿舎生活をしたのも、この頃だった。「初めはユビンさんと3人組を準備していましたが、デビューできませんでした。その後、5人のメンバーに選ばれ、1年間、ダンスや歌の練習に明け暮れました。そのグループが『五少女』です。メンバーとの相性も良かったのですが、会社の事情で解散に陥りました」

 やはり歌手になる道は険しかった。努力や情熱だけを持ってできることではない、大変な道だった。グループ解散という苦い経験をしたヒョソンは、自ら生き残る方法を学ばなければならなかった。「宿舎生活をしていたときは月3万ウォン(約2200円)の小遣いでした。学校も歩ける距離でしたし、レッスンに向かうための交通費があれば十分でした。食事は会社が出してくれたので心配いりませんでした(笑)」

 しかし、約束のない日々が続き、彼女は決断を下さなければならなかった。「高校3年生になったとき、このように時間を浪費するのはどうかと心配になり、まずは大学に進学することを決めました。演劇映画科に進もうとしましたが、専門的な準備が必要でしたので、アルバイトをすることにしたんです」

 この時期ヒョソンは精神的な苦痛に見まわれた。歌手になるために練習生の道を歩んでいたが、実現したものは何一つなく、田舎で苦労している両親を思うと、胸が痛かった。「『五少女』の番組が放送され、高校の友人や先生からは『いつデビューするのか』と聞かれるのですが、当時の状況を話すことはできませんでした。ユビンさんが『Wonder Girls』としてデビューする姿を見て、嬉しい反面、『わたしは今、何をしているのだろう』という思いにかられ、心苦しかったです」

 しかしヒョソンは諦めなかった。いや、諦めることができなかった。これまで流した汗を無駄にしたくなかったのだ。結局ヒョソンは練習生という立場で大学に進学することになった。アルバイトをしながら学費やレッスン費を稼いだヒョソンは、仁荷(インハ)大学演劇映画科に入学する。しかし、大学に合格した喜びも束の間、彼女は休学を決心した。「当時の事務所でも、これから頑張ろうと(デビューを)待っている状況でした。別の練習生は皆出ていき、ユイさんとわたしだけが残ってしまったのです。2人だけになってしまったからこそ、本当に一生懸命に頑張らなくてはと思い、結局、休学を選択しレッスンに励みました」

<b>■少女時代のヒョソンを襲った父の訃報</b>
 そんな苦難の連続だったヒョソンに追い打ちをかけるかのように、人生で最も大きな試練が訪れる。忙しくつらい日々でもヒョソンがくじけなかったのは、家族という存在が大きかったから。一日に何十回も弱音を吐きたかったが、苦労する両親の思いに我慢するしかなかった。そんな彼女に父親のガンの知らせが突然舞い込んできた。「高校2年生のとき、父がガンだということを聞きました。父はソウルにある大きな病院に通院し治療を受け、『バトル神話』が終わる頃、完治したことを知りました」

 そんな父は丈夫な体ではないにもかかわらず、再び仕事を始めた。異郷の地で苦労する娘に少しでも小遣いを送りたかった一心で。「ある冬の日、父が電話で『最近とても寒いが、毛布や暖房はあるのか』と言うんです。当時、体調も良くなかったと思うのですが、まずわたしのことを心配してくれる父に、娘として心が痛みました。わたしは、2006年に練習生生活が始まってから2年近く、父の顔を見たことはありませんでした」

 しかし、神は彼女の見方ではなかった。完治したと思われた父のガンが再発したのだ。「父は闘病中も働いていました。当時も建築業をしていたのですが、お金も足りずに新聞配達に資格の勉強までしていました」。練習と学校のテストで忙しかった彼女が父と疎通をはかるのは、電話しかなかった。「学校の中間テストで良い成績を収め、気分良く父に電話すると、父は泣いていたんです。いつも強いイメージしかなかった父が…。わたしが知っている父の姿ではありませんでした」

 インタビュー中、明るい表情で答えていたヒョソンだったが、当時を思い出し、涙を流してしまった。「病院からは心の準備をしなくてはならないと告げられました。家族が集まると、状況はさらに悪化しました。母は『生きている人間は生きなくちゃ』と、わたしをソウルに戻しました。結局わたしは、父の最後を看取ることができませんでした。今考えると、すごくつらいです。ただ練習を休んで父に会いに行けばよかったと、後悔しています」

 泣きながら話し続けていたヒョソンは、言葉に詰まり、涙だけ流していた。インタビューは中断され、しばらくしてインタビューが再開された。「妹の誕生日が5月6日なのですが、7日の12時5分に酸素マスクが外されました。父が40日間何も食べずにいたため痩せこけた姿が今でも鮮明に浮かびます。つらいはずなのに、そんな様子は見せず、深夜から新聞配達をずっと続けていたのを考えると、胸が張り裂けそうな思いです」

 「何年間は父の死を実感することができませんでした。まだ田舎にいて、行けば笑って迎えてくれるような気がしてなりません。『Secret』としてアルバムを出した姿を見たら、どんなに喜んでくれていたか…」。遠い場所へと行ってしまった父を最後まで見守れなかった罪悪感からなのか、彼女の涙は止まらなかった。

 父親を失った悲しみと衝撃に、何も手に付かないまま月日だけが流れていった。当時、鬱(うつ)病と双極性障害を併発し精神的にとても不安定だったという。しかしヒョソンは彼女の成功を願う家族の期待を裏切ることはできなかった。「父が亡くなった後、鬱(うつ)病と双極性障害を患いました。姉がソウルにいたのですが、姉の支えで持ちこたえられたように思います。以後、これではダメになると思い、事務所を出ることにしたんです。周りからは『歌手デビューができなかったら、別の道を探してみてはどうか』という言葉をもらいました。わたしも、その年にデビューが実現できなかったら、夢を諦めようと考えていました」

<b>■ついに“歌手”としてデビュー</b>
 このように、熱かった情熱も冷めてしまっていた頃、チャンスは偶然にも巡って来た。「『五少女』のあるメンバーが『アンタッチャブル』のD.Actionと知り合いでした。その縁で、現事務所の関係者に会ったのです。今思えば、縁というものはとても不思議なものです。事務所と契約を交わし、(Secretのメンバー)ソナと生活していました。そしてその1か月後、ジンガーが入り、またその1か月後にジウンが加入したんです」

 しかしヒョソンは、「Secret」のメンバーと仲良くなるには長い時間が必要だった。「五少女」では末っ子として過ごしていたものが、急にグループのリーダーになったことへのプレッシャーと、またメンバーと離れ離れになるのではという不安感が襲ってきたのだ。「わたしは心をすぐに開く方ではありません。心を開いてわたし自身が傷つくのではと心配も大きく、初めはメンバーと仲良くできませんでした」。結局ヒョソンはデビュー後にようやくメンバーと打ち解け、「親友」になれたという。「デビューして“会話の時間”を持ってから仲良くなりました(笑)。今はメンバー同士仲良しですが、当時は『また仕事がうまくいかず、メンバーと別れることになったらどうしよう』という思いが大きくて、心を開けないでいたようです。感情的にならないように努めても、簡単にはできませんでした」

 そして、ヒョソンに歌うチャンスが来たのは2009年の中ごろ。「アンタッチャブル」のミニアルバム収録曲「My Boo」に、フィーチャリングで参加したのだ。「デビュー前のことです。参加した『アンタッチャブル』先輩の1stミニアルバムが出たとき、言葉では説明できないほど嬉しかったのを覚えています。母はその曲を携帯の“待ちうた”に設定し、泣いていたそうです」。母の話になると再び目頭を熱くするヒョソンであったが、声は力強くインタビューを続けた。「わたしが夢に向かっている姿をずっと見ていました。わたしの誕生日に音源が公開になったのですが、家族はもちろん、友人からも連絡をもらい大変な状況でした」

 「現在の状況に本当に感謝しています。高校3年生からデビュー前まで、笑顔を忘れていたと言っても過言ではありません。今思うと、自分自身にとても否定的でした。少しずつ笑顔を取り戻させてくれた『Secret』のメンバーに感謝したいです」

 インタビューで見せたヒョソンの涙と笑顔を通して、「Secret」というガールズグループが、し烈な競争を繰り広げるK-POP界の中で“なぜ生き残れるのか”、それを改めて知らされたようだった。(記者:パク・コヌク)



Copyrights(C)wowkorea.jp 0