【ソウル聯合ニュース】朝鮮王朝の主な宮殿は日本に植民地支配される間に大きく損なわれた。大韓民国政府の樹立後、復元が進められてきたが、かつての姿を完全に取り戻すまでの道のりは遠い。光復(日本による植民地支配からの解放)70周年を機に、王宮の波乱の100年を振り返る。 景福宮は朝鮮王朝初代王・太祖時代の1395年に完成し、正宮として用いられた。1553年の火災で国の重要な儀式を執り行う勤政殿以外は消失し、1592年には壬辰倭乱(文禄・慶長の役)により完全に廃墟となった。その後、第14代王の宣祖と第15代王の光海君が景福宮を再建しようとしたが、財政不足から実現しなかった。 景福宮の再建は第26代王・高宗即位後の1865年、神貞王后の命で始まり、2年かけて主要な建物と門の再建を終えた。 しかし、景福宮は再び日本に破壊される。景福宮内で明成皇后が殺害された後、高宗はロシア公館に住まいを移し、国権を奪った日本は公園の造成を理由に、主が去った王宮を破却した。 日本は1926年に朝鮮総督府の建物を建設し、正門である光化門を東門の建春門の北側に移した。 植民地支配から解放された直後の景福宮には、日本が建てた総督府とその付属の建物、博物館、美術館があった。19世紀に建設された建物としては勤政殿、王が日常の政務を行った思政殿のほか、慶会楼、慈慶殿、香遠亭が残っていた。 大韓民国の樹立後も、景福宮は文化財ではなく、宴会や娯楽の場として利用された。慶会楼前の池はスケート場になり、日本が建てた建物では各種の展示会が開かれた。わずかに残っていた伝統ある建物は遺物を補完する倉庫として使われた。 1960年代に勤政殿の補修と慶会楼を装飾し直す工事が行われたが、光化門はコンクリートを使った上に、誤った位置にされた。 景福宮が本格的な復元と整備に入るのは1990年のことだ。政府は景福宮をあるべき姿に戻すため、2010年までに総督府の建物と近代式の建物のほとんどを撤去し伝統的な宮殿を再建する復元第1期事業を進めることにした。まずは景福宮の中軸をかつての姿に正すことに焦点を当てた。 その結果、王の寝所である康寧殿、王妃が住まう交泰殿、皇太子と皇太子妃のための資善堂、乾清宮が新たに建てられ、光化門は正しい位置に木造で復元された。光復直後に36棟だった景福宮の建物は125棟に増えた。 復元の第2次事業は現在も続いている。今年5月に宮中の台所である焼厨房が一般公開された。7月には外国の使臣と会うことが多かった興福殿エリアの復元に用いるマツの木が寄贈された。 文化財庁は2030年までの復元事業を通じ、建物を379棟に増やす予定だ。これは高宗時代の再建の75.8%にあたる。 文化財委員を務めた古建築の専門家ユン・ホンロさんは、日本がほかでもない景福宮に朝鮮総督府を建てた理由は朝鮮の正宮だったためだとしながら、「過去70年間の復元は、景福宮にあった建物を元の位置に戻すという意味がある」と話した。 mgk1202@yna.co.kr
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