1719年、9回目の朝鮮通信使に製述官として同行した申維翰(シン・ユハン)は、のちに『海游録』という書物を残している。
その翻訳版は、平凡社東洋文庫(姜在彦訳注)に収められていて、それを読むと朝鮮通信使の道中がどんなものであったかが克明にうかがえる。この申維翰も「使館は福禅寺である」と前置きしながら、鞆の浦についてこう記している。
見物の男女は、錦衣を着て、東西に満ちあふれている。そのなかには、商客、倡娥(あそびめ)、富人の茶屋も多く、各州からきた使官が往来し、住舎も繁華にして目に溢れるばかり。これまた赤間関以東の一都会である。海岸は山高く秀でて海に臨み、三面は諸山が相控えて湾をなす。山の根が海に浸っているところは、石を削って堤となし、その平整なること裁断した如くである。松、杉、橘、柚など百果の林が、蒼翠として四方を擁し、それらが水面に倒影す。人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない。
賑やかな町の中で人々はどんな風に朝鮮通信使を迎えたか。申維翰は「見物の男女は、錦衣を着て」と書いている。これは、最上級のもてなしではなかったのか。
遠い異国から来た珍しい使者たちに対し、地元の人たちが敬意を寄せている雰囲気が如実に感じられる。
さらに、「茶屋も多く」や「住舎も繁華にして目に溢れるばかり」という記述に興味を持つ。かつての鞆の浦の隆盛ぶりが大いに偲ばれるからだ。
◆瀬戸内海の潮待ち港
なぜ、鞆の浦は栄えたのか。地元の人に話を聞いた。
かつて、海上建造物の建設に従事していたという60代の男性が、鞆の浦の地理的な特性について詳しく教えてくれた。
「鞆の浦は昔から潮待ち港として栄えました。瀬戸内海のちょうど中間に位置していて、ここで潮の流れが変わるんですよ。なにしろ、干潮と満潮では3m以上も差があって、山口県のほうへ流れる潮と、兵庫県のほうに流れる潮が分かれます。船はここで待機しながら、潮の様子を見きわめるわけです。朝鮮通信使の船がここに宿をとったのも当然でしょう。景色を堪能しながら、いい潮になるのを待つわけですから、なかなか優雅ですよね。多くの船が集まるので町も賑やかになり、昔は遊廓もありました」
こうした話を聞いても、鞆の浦が瀬戸内海の中でも特に重要な場所であったことがよくわかる。
けれど、交通手段が鉄道や車が主になり、鞆の浦の立地条件も必然的に変わらざるをえなくなった。
人の出入りは少なくなり、今は静かな海辺の町になっている。それがかえって、過去を振り返るのにふさわしい哀愁を呼び起こしてくれる。
◆心にゆっくりしみこむ風景
徳川幕府が倒れて新たに明治政府が誕生すると、善隣外交も転換を迫られるようになった。
朝鮮王朝は友好関係を築いてきた徳川幕府を倒した明治政府を懐疑的に見ていたし、その明治政府が先例を無視して礼を失する対応をしたことで、朝鮮王朝は不信感を募らせた。その中で、両国の関係は一気に冷え込んだ。
このとき、「外交は政権が変わっても不変」という基本原則を明治政府も朝鮮王朝もしっかり保持していれば、その後の状況も違っていたと思われるが、あとで「もしも…」と振り返っても、歴史は変わらない。
ただ、残念に思うことがある。
朝鮮通信使は日本各地を回りながら、日本の文化水準を低く見る傾向があった。そういう態度が、日本の国情を正確に把握するうえで妨げになっていたのではないか。
12回にわたった江戸時代の朝鮮通信使が、善隣友好に大きな働きをしたことは事実なのだが、それが明治維新後の両国関係に寄与できなかったことが惜しまれる。
そんなことを考えながら、ずっと瀬戸内海の景色を見ている。
向かいの島にはコンクリートの建造物も見えているから、朝鮮通信使が見た風景とそっくり同じではないだろう。けれど、海と空は当時と変わらない。私が望んだ青味を帯びていた。
そのとき、向かいの島へ行く渡し船が、スーッと海上を走っていくのが見えた。瀬戸内海はどこまでも穏やかで、そして優雅である。
今は映像を通して世界中の景勝地を堪能できる時代である。ダイナミックな景色を映像で見慣れてしまうと、瀬戸内海の眺めは地味に思えてしまう。絵画のようではあるが、絶景というほどではない。しかし、なぜか心が安らぐ。
「日東第一形勝」
300年近く前、朝鮮通信使の人たちがそう形容した気持ちがよくわかる。美しい風景は、地味なほうが心にゆっくりしみこんでくる。
そのことを瀬戸内海の眺めが示していた。
(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)
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