蘇我氏の人たちも、この甘樫丘の頂上によく登ったと推定されている(写真提供:ロコレ)
蘇我氏の人たちも、この甘樫丘の頂上によく登ったと推定されている(写真提供:ロコレ)
蘇我氏と物部氏の間で起こった仏教の受容をめぐる対立は、数十年も続いた。つまり、ヤマト政権の主導権をめぐる争いの中で、仏教が一番の争点になったのだ。治世は欽明天皇、敏達天皇、用明天皇へと移った。この用明天皇が在位2年足らずで世を去ってから、その後継者をめぐって蘇我氏と物部氏の対立が一層激しくなった。


■蘇我氏と物部氏の戦い

 蘇我馬子(そがのうまこ)は、蘇我氏の血を引く王族を王位につけようと先手を打った。窮地に陥った物部守屋(もののべのもりや)は、本拠地の河内にいったん退いて、次の決戦に備えた。

 攻める蘇我氏、守る物部氏。

 物部守屋は師弟と兵士を集めて稲で砦を築いて防御を固めた。そのうえで、上から蘇我軍をめがけて激しく矢を射った。雨のように降ってくる矢におそれをなして、蘇我軍は三度も退却せざるをえなかった。

 蘇我氏の側についていた厩戸(うまやど)皇子は、後ろから戦況を見ていて思わずつぶやいた。

「この戦は負けるかもしれない。願をかけなければ……」

 厩戸皇子は霊木と称される木を切って四天王の像を即興で造り、束髪の上に載せた。

「この戦、ぜひ私どもに勝たせてくださいませ。願いが叶いましたら、かならず寺塔を建てます」

 一心に祈る厩戸皇子。その姿を見ていたら、蘇我馬子も、仏に祈らずにはいられなかった。

「我らをお守りください。勝たせてくださったら、寺塔を建てて三宝を広めます」


■蘇我氏の天下

 蘇我馬子は祈りを終えると、作戦の変更を同志に伝えた。

「守屋1人だけを徹底的に狙え」

 その意をくんだ配下の者たちが、木にのぼって陣頭指揮を取っている物部守屋を執拗に狙った。

 こういうときに一番心強いのは弓の達人である。彼が、木々の間を狙って物部守屋に矢を命中させるという離れ業を演じた。

 大将が死んで物部軍は総崩れになった。敗残兵は命ほしさに散り散りとなって逃げていった。

 物部氏は滅び、蘇我氏の天下となった。

 蘇我馬子には、もう誰も逆らえなくなった。

 たとえ、天皇でさえも……。

 ただし、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は少なからず蘇我馬子に反感を持っていた。


■聖徳太子の登場

 たまたま、猪を献上されることがあった。

 その猪を見ながら、崇峻天皇は、

「猪の頸(くび)を斬るように、憎い人間を斬ってみたいものだ」
 と口走った。

 この発言を人づてに聞いた蘇我馬子は、天皇に嫌われていると悟った。さらには、天皇の周囲で武器を集めているという情報を得た。

「先に動かなければ、こちらがつぶされる」

 危機感を持った蘇我馬子は、592年11月に崇峻天皇の命を奪った。空いた皇位に上がったのが推古天皇である。

 この即位にともなって推古天皇の甥にあたる聖徳太子(厩戸皇子)が抜擢されて、摂政を担うことになった。

 この聖徳太子と推古天皇は蘇我氏の血を受け継いでおり、最高執政官となる大臣は蘇我馬子だった。


■渡来人の活躍

 政権の首脳はみな蘇我氏の系統となり、この一族は栄華を誇った。

 蘇我氏は百済からの渡来人たちによって支えられていた。百済が日本に仏教を伝えたときも、その恩恵を一番受けたのが蘇我氏だった。

 仏教が広がるということは、仏像を作る技術や寺を作る技術などがともなってくる。当時の日本からすれば、それはまだ経験したことのない大変な事業であった。同時に利権も関わってくるのだが、それを利用しようと考えたのが蘇我氏だった。

 蘇我氏が物部氏を駆逐したあと、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と代が引き継がれ、蘇我氏の統治は続いた。

 彼らの基盤を支えたのが、大陸からやってきた渡来人の存在だった。

 政治制度の確立から土木技術の活用まで、渡来人は土地と住民を統治する技術をもっていた。

 特に、文字に関わる作業は渡来人が特殊な力を発揮した分野であった。渡来人は非常に数が多く、彼らの存在が国づくりに大いに役立った。

 また、百済との外交関係に積極的だったことから、蘇我氏そのものが百済の出身ではないかという説もある。


文=康熙奉(カン・ヒボン)
出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)
(ロコレ提供)

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