「死六臣」の末裔によって執り行われた「死六臣」春季祭礼の様子(写真提供:news1)
「死六臣」の末裔によって執り行われた「死六臣」春季祭礼の様子(写真提供:news1)
「死六臣」とは、成三問(ソン・サムムン)を初めとした、端宗(タンジョン)に忠誠を誓った6人のことである。どのようにして彼らが「死六臣」と呼ばれるようになったのだろうか。

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■端宗復位運動

 端宗は、父親の5代王・文宗(ムンジョン)が在位わずか2年3か月で世を去ったことで、11歳で6代王として即位した。しかし、大変な野心家だった叔父の首陽大君(スヤンデグン)が、「幼い端宗より自分が王になるべきだ」と考えていたので、強引に端宗から王の座を奪い、7代王・世祖として即位した。そんな強引なやり方に対して、当然ながら反抗の意を示した高官は多かった。その中心人物となったのが、「死六臣」の1人である成三問だ。

 彼は、とても頭が良くて21歳のときに科挙に合格した。そして、4代王・世宗(セジョン)を支え、ハングルの創製にも関わった。

 彼は同志を募って、端宗を王に復位させるためのクーデターを計画した。決行する日は、中国の明の使節の歓迎行事が行なわれるときだ。


■「死六臣」の覚悟

 本来なら、その行事のときに世祖を殺害する予定だった。しかし、1人の同志の裏切り行為によって、その計画が世祖にばれてしまい、失敗に終わってしまう。

 成三問たちを捕えた世祖は、彼らに対してこういった。

 「お前たちのような有能な人材を失うわけにはいかない。助けてほしければ余を王と認めるのだ」

 しかし、端宗に忠誠を誓っていた成三問たちは決して世祖を王と認めず、激しく罵った。それによって彼らは、激怒した世祖に処刑された。成三問たちの遺体は見せしめのために、刑場に放置されたままにされた。さらに彼らの父親や息子も同じく処刑され、母親や娘たちは奴婢になってしまう。

 成三問たちは、それらをすべて覚悟したうえで、世祖の命を狙ったのである。


■「死六臣」と「生六臣」

 自らの命を捨ててでも、端宗への忠誠心を貫き通した成三問たちはすばらしい。そんな彼らは多くの人に評価されて「死六臣」と呼ばれるようになり、現代の韓国でも称賛されている。「死六臣」と呼ばれた人物は、成三問のほかに、朴彭年(パク・ペンニョン)、河緯地(ハ・ウィジ)、李塏(イ・ゲ)、兪応孚(ユ・ウンブ)、柳誠源(ユ・ソンウォン)の5人がいる。

 その一方で、「死六臣」のように処刑されなかったものの、官職を辞することで世祖に仕えなかった者もいる。その者たちは「生六臣」と呼ばれている。

 「死六臣」も「生六臣」も王に従わなかった人物たちであるのは間違いない。しかし、本当の意味で正義の心を持った人たちであった。


文=康 大地【コウ ダイチ】
(ロコレ提供)

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