珍島の名所「雲林山房」(写真提供:ロコレ)
珍島の名所「雲林山房」(写真提供:ロコレ)
韓国南西部に浮かぶ珍島(チンド)。1984年に完成した珍島大橋で陸地とつながった。ここは、「神秘の海割れ」が起こる島として日本でも知られるようになった。この島の名所となっているのが雲林山房(ウンリムサンバン)である。


■朝鮮王朝末期の優れた教養人

 雲林山房は、4代続いた山水画の名家の記念館である。

 管理事務所の窓口で入場券を買う。念のため、バスの乗り場を窓口の女性に教えてもらおうとしたら、奥から「駐車場の向こうに行けば停留所がありますよ」という日本語が聞こえてきた。私は韓国語で話しかけていたのに、日本から来た者だとすぐにわかったらしい。声の主は70代のハラボジ(おじいさん)だった。

声が太く、ドスがきいていて、まるで片岡千恵蔵に話しかけられているような気分になった。

「バスは午後4時半に出ます。まだ1時間以上あるから、ゆっくり見学してください」

 そう教えてくれたハラボジは、胸にボランティア活動を示すワッペンを付けていた。少しでも地域の役に立ちたい、というのが信条なのだろう。頭が下がる思いで、ハラボジに礼を言った。

 雲林山房に入ると、広い庭園があり、その奥に展示館があった。ここを築いたのは、珍島出身で朝鮮王朝末期の優れた教養人だった許錬(ホリョン)(1808~1893年)である。詩、書、画において天賦の才能を発揮し、40歳のときには朝鮮王朝24代王の憲宗(ホンジョン)に謁見し、王が使う墨と筆で画を描くという栄誉を受けた。都での名声は高かったが、師の金正喜(キム・ジョンヒ)が流刑先の済州島(チェジュド)で亡くなると、その死を悼んで1857年に故郷に戻り、画室を建てて余生を送った。それが、今の雲林山房になった。


■一人旅の寂しさ

 画業は代々受け継がれ、2代目、3代目、4代目と名人を輩出した。4代にわたって山水画の名人を生み出しているというのは特筆もので、山紫水明の世界を描いた作品群を展示館でたっぷりと堪能することができる。

 広い敷地には、許錬にゆかりのものが点在している。それは、許錬が植えた百日紅、蓮池として著名な雲林池、許錬が絵を描いた画室、許錬が住んだ生家などである。私は特に雲林池が気に入った。周囲の樹木とよく調和していて、中央に浮島があり、水面には蓮の葉が美しい模様で浮かんでいる。

 蓮の葉を見ていると、心がとても穏やかになっていく。

 そのうち、中年男性だけの団体客がやってきて、大声で冗談を言い合っていた。総勢で20人ほど。顔が真っ赤な人が多く、バスの中で賑やかに酒盛りを楽しんでいたことをうかがわせた。

静寂が破られたので、私は雲林山房を出た。道路を隔てた向かい側の食堂にも大勢の団体客がいた。テラスでマッコリを飲む人たちが大声で笑い合っている。駐車場に目をやると、幹事役の人が手に抱えきれないほどの焼酎を持って観光バスの中に入っていく光景も見られた。このときばかりは、一人旅の寂しさを痛切に感じた。


■珍島の絵はがき

 ハラボジに言われた通り、駐車場の先まで行ってバスの停留所を探したが、どうしても見つからない。近くに観光案内所があったので、そこで聞いてみようと行ってみると、偶然にも先ほどのハラボジが座っていた。

「バスの停留所がわからないのですが……」

「駐車場の端に立っていればバスが停まってくれるから心配はいりません。それより、まだ時間があるから中に入っていらっしゃいよ」

 好意に甘えて、私は小さなプレハブの中に入った。ハラボジの横には40代の男性が一緒に座っていた。

「雲林山房はどうでした?」

 ハラボジにそう聞かれたので、私は大きく頷きながら言った。

「山水画も良かったし、蓮池の周辺の景色が美しくて安らぎますね」

「気に入ってもらえて私もうれしいですよ」

 ハラボジと話をしていたら、となりにいた40代の男性が会話に加わってきた。よく聞いてみると、奥さんが日本人だという。ただし、彼は日本語がほとんどわからない様子だった。ということは、夫婦の会話はもっぱら韓国語なのだろう。一体、どこで知り合ったのだろうか。

「ソウルに行ったとき知り合ったんですよ」

 照れながら彼はそう言っていたが、奥さんもソウルからこの珍道まで来るにはかなり勇気が要ったのではないか。いくら海割れの島として知られていても、結婚して住むとなったらまったく別の苦労があるに違いない。

 それだけ夫の支えが欠かせないが、男性は優しく家庭的な感じがした。私に珍島の絵はがきを何枚かくれたのだが、その中には海割れの写真を載せたものも含まれていて、人の群れが沖合の島まで押し寄せている様子がよくわかった。


■日本から珍島に嫁に来た女性

 4時半が近くなってきた。バスの時間なので礼を言って観光案内所を出ようとしたら、思いがけず男性から「この観光案内所も4時半に閉めますが、その時間に妻が車で迎えにくるんですよ。バスターミナルまで送りますから、一緒に行きましょう」と声をかけられた。申し訳ないので辞退したが、「妻は日本人だから話も合いますよ」としきりに勧められる。結局、奥さんに対する興味もあり、申し出をありがたく受けた。

 ハラボジが一足先に帰り、私と男性が観光案内所の前に立っていると、1台の軽自動車がやってきた。奥さんが時間どおりに迎えに来たのだ。

 男性は私を「日本から来た人です」と奥さんに紹介した。すると彼女は「やっぱりね。立っている姿を見ただけで、そうじゃないかと思ったわ」と言って笑った。

 私もつられて笑った。照れ笑いである。肩をすぼめて立っていた自分の心細さを見透かされてしまったと思えたのだ。

 確かに、韓国の男性は、立ち姿がふてぶてしい。周囲に隙を見せずに威風堂々と立つという習性が身についているのだ。その姿からすれば、私の立ち姿は隙だらけだったことだろう。

 奥さんはそこのところをよく見ていた。快活な30代の女性で、話しっぷりも活きがいい。彼女が運転する車に乗りながら、珍島の話をいろいろ聞かせてもらった。

 元々は山梨県の出身で、今は珍島の役所で働いているとのことだった。日本から珍島の民俗を研究に来る人たちの案内もしていると言っていた。地元にすっかり溶け込んでいる様子だ。

 バスターミナルに着いたとき、なるべく入口の近くに停車するために、男性は奥さんに対して急なUターンを命じた。

「ここでUターンしろって?これだから韓国人は……」

 あきれた顔で奥さんが日本語で言ったが、そのニュアンスが妙におかしかった。無理なことを平気で命じる癖が韓国人にある、という意味合いのようだった。それは、彼女が韓国の地方で暮らしてきた中で身に沁みた実感なのだろう。

 2人に感謝して、気持ちよく車を降りた。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=「韓国のそこに行きたい」(著者/康熙奉 発行/TOKIMEKIパブリッシング)
(ロコレ提供)

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