■忘れられた国
韓国時代劇で高句麗と新羅がよく取り上げられる理由は何か。
高句麗は朝鮮半島の歴史の中で最大の領地を獲得した伝説の強国だったし、新羅は最初の統一国家としてその後の朝鮮半島の政治と暮らしに決定的な影響を及ぼした大国だからだ。それだけ、時代劇の題材になりやすい国なのである。
一方の百済。高句麗と新羅と比べると、いかにも地味だったと言わざるをえない。
しかも、660年に新羅・唐の連合軍に滅ぼされたとき、都の扶余(プヨ)は完全に焼き尽くされ、何の痕跡も残せなかった。
以後も、百済の伝統は完全に朝鮮半島の歴史から姿を消してしまった。
いわば、「忘れられた国」だったのである。
しかし、最近の韓国で古代の発掘調査が進むにつれ、百済という国家がいかに文化的に優れていたかがわかってきた。今後、百済が歴史的に再評価されることは間違いない。
また、百済は日本とも非常に関係が深い国だった。百済は漢字や仏教を日本に伝えたばかりではなく、百済の多くの知識人や技術者が日本に渡って活躍した。それだけに、百済は新羅や高句麗よりずっと日本になじみ深い国だったのである。
■高句麗を出て行った兄弟
韓国の歴史書『三国史記』によると、百済は高句麗を建国した朱蒙(チュモン)の息子が興した国ということになっている。そのあたりの逸話は次の通りだ。
高句麗の王となった朱蒙には2人の息子がいた。沸流(プル)と温祚(オンジョ)である。当然ながら、朱蒙の後継者は長男の沸流になるはずであったが、さらに朱蒙には出身地に残してきた年長の息子がいることがわかった。
結局、その息子が朱蒙を訪ねてきて、実子であることがわかった段階で後継者となり、朱蒙の死後は2代王の瑠璃王(ルリワン)になった。
こうなると沸流と温祚の立場は危うくなる。2人は配下の者を連れて南下し、新たに自分たちの国を築こうとした。
朝鮮半島の中央に位置する漢江(ハンガン)のあたりにやってきた2人。沸流は海岸のほうが暮らしやすいと考えて、今の仁川(インチョン)のあたりを領土にした。温祚は肥沃な土地が多いということで、今のソウルのあたりで国作りを始めた。
■最初の首都は現在のソウル近郊
兄弟の中で、沸流は建国に失敗して自害せざるをえなくなった。
あまりにも悲惨な最期であった。
その一方で、温祚は周辺の部族集団を傘下におさめながら勢力を拡大し、紀元前18年についに十済(シプチェ)という国を建国した。
これが百済の始まりである。
温祚は初代の王となった。都は、現在のソウル近郊にあたる慰礼城(ウィレソン)に築いた。
以上の経緯を『三国史記』は書いているが、歴史的にどの程度の信憑性があるかは現在も多くの議論を呼んでいるところである。
とはいえ、今の韓国でも、「百済は朱蒙の息子が作った国」という認識を持っている人が多いのも事実だ。
朝鮮半島の西南部は平野が多く、今でも韓国有数の穀倉地帯になっている。
こうした肥沃な大地を抱えているという地形的な利点を生かしながら、百済は徐々に勢力を拡大していった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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