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朝鮮王朝は壬辰倭乱(※訳者注:豊臣秀吉による1592~1593年の文禄の役、広い意味では1597~1598年の慶長の役を含め日朝明の戦乱)で日本との国交が断絶されたのだが、1607年(宣祖40年)に再開されると同時に朝鮮通信使が日本を訪問するようになった。
当時の日本は徳川家康(1542~1616年)が権力を握っていた時期で、幕府将軍の治世を確立し、朝鮮と善隣関係を維持する次元から朝鮮通信使の訪日を推進するようになった。朝鮮通信使は一回に訪日する都度に400~500人と大規模なものだった。
通信使代表の地位は正使として、正三品(※訳者注:日本の律令制官位における正三位に相当)級だった。現在で例えれば、1級公務員(※訳者注:韓国の公務員制度で次官級もしくは地方自治体の副首長程度に相当)あたりに当たる。
朝鮮通信使は一回訪日するのに100万両程の莫大な費用が支出された。費用は全額、日本の幕府が負担した。通信使の一行が500人程の場合、一人当たり2000両と言う計算となる。
当時の日本に居住していた外国人の中で最高の待遇を受けていたのは、イタリア人宣教師「シドッチ(Sidocci/1668~1714年)」という人だったが、彼の1年間の生活費が25両水準だった。(※訳者注:シドッチは1708年に鎖国下の日本に潜入して宣教をしようとした人物。捕らえられて江戸に護送され、新井白石との宗教哲学を巡る論争の末、切支丹屋敷、キリスト教信者・宣教師専用の収容施設に幽閉され殉教)
滞在期間に関係なく比較すれば、「外人1人の1年間の生活費25両 vs. 朝鮮通信使1人の1回の訪日費用2000両」となる。朝鮮通信使が外人に比べ80倍にもなる超豪華接待を受けていたと知り得る。
朝鮮通信使は1811年(純祖11年)まで合計12回実施された。朝鮮通信使の移動コースは、漢城(ソウル)から出発して東萊(釜山)を経て、対馬島、下関、大阪、京都、名古屋などを経由し、江戸(東京)に到着する旅程だった。朝鮮通信使の訪日した時期と規模などは以下の通りだった。
第1回目:1607年(宣祖40年)、467人、日本との国交回復記念の次元
第2回目:1617年(光海君9年)、428人
第3回目:1624年(仁祖2年)、300人、徳川家光の就任祝い
第4回目:1636年(仁祖14年)、475人
第5回目:1643年(仁祖21年)、462人、徳川家綱の誕生祝い
第6回目:1655年(孝宗6年)、488人、徳川家綱の就任祝い
第7回目:1682年(肅宗8年)、475人、徳川綱吉の就任祝い
第8回目:1711年(肅宗37年)、500人、徳川家宣の就任祝い
第9回目:1719年(肅宗45年)、479人、徳川吉宗の就任祝い
第10回目:1748年(英祖24年)、475人、徳川家重の就任祝い
第11回目:1763年(英祖39年)、472人、徳川家治の就任祝い
第12回目:1811年(純祖11年)、336人、徳川家斉の就任祝い
朝鮮通信使一行は日本に到着してその発展した姿と文物に接するようになった。そして衝撃を受けた。このような内容は朝鮮通信使の記録にそのまま残っている。朝鮮通信使が日本側に朝鮮の先進文物を伝えてやったという風な話は100%嘘だ。最後の12回目の朝鮮通信使は日本本土を踏めずに対馬からそのまま朝鮮に帰って来た。
莫大な経費をかけつつ、朝鮮通信使を迎えてきたのだが、日本の幕府はその間に朝鮮から学んだものは殆ど無かった。通信使一行が常に性理学と朱子学を議論に挙げると同時に、威張る姿だけ見なければならなかった日本は、この行事の持続か否かについて苦悩に陥るようになった。
当時の日本の幕府は改革と開放政策を通じ、世界最新の情報をほぼリアルタイム水準で把握している状況だった。従って相変わらず朱子学、性理学の枠組みから一寸も抜け出せずにいる朝鮮の通信使は次第に利用価値が無くなっていくようになった。
故に結局、1811年の12回目には初めから江戸(東京)まで来ることも無く、通信使一行を対馬で適当に応接した後、そのまま送り返したのだ。これを「易地聘礼」という。(※訳者注:「易地」とは土地・場所を変えるという意味で江戸から対馬に実施場所を変え、「聘礼」とは国書のやり取り・伝達の意味で、天明の大飢饉などの連年の困難を口実に朝鮮通信使とその関連行事を対馬で実施するようになった事件のこと)そしてこれをもって終了となった。
日本の幕府は既に1600年代に長崎の沖に「出島」と言う人工島を造成した。1634年から1636年までの約2年間の工事を経て、扇型の格好で造成された人工島でのみ、オランダ東インド会社(オランダ、英国、フランスなどが東洋に対する貿易権行使の次元から東インドに設立した貿易会社)所属の船舶が出入りすると同時に、日本と商業行為を営めるようにした。出島は一種の貿易基地だったわけだ。
日本の幕府は1857年にオランダと更なる貿易条約を結ぶまで約200年余りの間、長崎の出島を通じて西洋の武器、技術などの先進文物と文明を分け隔て無く吸収した。日本の幕府はオランダ側に長崎の人工島の出島を提供する代わりに、オランダが全世界に存在する東インド会社支店を通じて獲得した高度な情報を、出島駐在のオランダ側責任者に報告書形式で整理させ、江戸幕府に毎年義務としてブリーフィングさせるようにしておいた。
これにより、出島駐在のオランダ側責任者は全世界の東インド会社を通じて把握した最新情報を整理し、毎年江戸を訪問して、直接幕府にその内容を詳細にブリーフィングしていた。このようなブリーフィングは1857年まで合計166回に渡ってなされていた。
江戸幕府はこんな風に既に1600年代初盤から世界情勢を一つ一つ把握していた。ところが、このような水準の幕府に向かって、朝鮮通信使の一行が性理学が如何だ、朱子学が如何だという風な戯言をあれこれ語り続けたので、日本の幕府の立場では呆れていただろう。
1853年7月、米国のペリー艦隊(黒船)による日本の江戸(東京)沖での出現に日本が大きな衝撃を受けたという話も事実でない。日本は既にオランダ東インド会社を通じて米国のペリー艦隊の動向を把握しており、日本に到着する時期まで知っていた。
日本が驚いたのは、ペリー艦隊の登場自体でなく、ペリー艦隊の攻撃に備えてそれなりに日本で最良の火砲など、非常に強力な武器を準備しておいて待っていたのだが、実際のペリー艦隊の武装水準を目で確認した結果、予想よりもはるかに強力だったからだ。
(つづく)
※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。
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