大阪と京都を結ぶ京阪電車。車窓からの景色もよく、私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)が好きな私鉄の一つだ。
その京阪電車の特急に大阪市内の京橋駅から乗って京都方面に向かうと、最初の停車駅が「枚方(ひらかた)市」である。京橋駅から15分ほどの乗車時間だ。
この駅で京阪電車の交野線に乗り換え、南に向かうと一つ目の駅が「宮之阪」。高架の駅舎から小高い丘がいくつも見えている。大阪府の東北端に位置するが、起伏が多い土地なのである。
駅を出てから前の通りを左に向かい、一つ目の信号を右に曲がると、そこから曲がりくねった上り坂が始まる。
坂の上からは、下りを利用してスピードをあげた自転車が次々と走ってくる。警戒心が働いて、のんびり歩いていられない。前方を注視しながら坂をのぼっていくと、5分ほどで左側に石畳の階段が見えてきた。
階段の左側には「史蹟 百済寺跡」と書かれた古い石柱が立っている。ゆっくりと階段を上っていく。
静寂の中で、なんとなく時間が止まったかのような錯覚を覚える。感覚がまどろんでくる。やがて百済王神社に出た。
■滅亡した百済の有力者
目の前の鳥居をしばらく見上げたあと、説明板に目を向けた。そこには、次のように神社の由来が書かれてあった。
百済国王の禅広は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守百済王の敬福(きょうふく)は聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
やがて百済王氏一族は、皇室や高級貴族と姻威関係をもち、朝廷内での地位を高めていった。特に桓武天皇は交野ヶ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。
その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図られた。
こうした説明を読むと、この地が、滅亡した百済の有力者たちにゆかりがある場所だとわかる。
■堕落した百済国王
百済王神社のとなりには木が生い茂る公園があり、その中央は平らな広場になっている。この公園こそ百済寺があった場所なのである。
かつて百済寺は百済の歴代王を日本で祀る寺院だったのだが、結局は消滅という運命をたどった。
百済寺の跡地では、南門、中門、回廊、金堂、東塔、西塔などの遺構が発掘されている。金堂と中門の間に東塔と西塔があり、その礎石が残っていた。
建物は何も残っていないので、その礎石を見ながら、「確かにそこに百済寺があった」と思うしかない。
私が訪ねたときは、曇り空で風が強い日だった。木の葉を揺らす風の音が絶え間なく聞こえ、カラスが鳴き、なんとも言えない不気味な雰囲気だった。
私は、しばらく公園の中で風の音をしんみり聞きながら、百済寺があった意味について考えた。
7世紀前半、朝鮮半島は高句麗(コグリョ)、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)の三国が拮抗していたが、その中で、中国大陸の巨大帝国だった唐と連合して力を強めていったのが新羅だった。
660年、新羅・唐の連合軍は、百済を激しく攻めたてた。このときの百済の王は、義慈(ウィジャ)王だった。
この義慈王は、朝鮮半島の最古の歴史書である「三国史記」の中で当初は、「勇敢で決断力があり、親には孝をつくし兄弟にも友愛をもって接した」と最大級の賛辞を受けるほどの人物だった。
しかし、王に即位してからは人が変わったようになり、同じ「三国史記」に「王は宮人とともに淫乱し、享楽をむさぼり、酒を飲んで遊興するのをやめなかった。家臣が強く諫めると王は怒り、その家臣を投獄した。その後は誰も諫める者がいなかった」といったように書かれる有様だった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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