■日本の水軍が大敗
豊璋の要請によって、日本の朝廷はさらに2万7千の兵と船400隻を派遣し、百済復興軍を援護した。663年、白村江で新羅・唐の連合軍と百済・日本の連合軍が争った。けれど、日本はまだ海戦に慣れておらず、船400隻も唐の船に比べると小さかった。
しかも、作戦の失敗があり、日本の水軍は大敗。新羅・唐の連合軍の圧倒的な勝利となった。
豊璋はあっさりと逃亡。百済復興軍も総崩れとなり、百済は完全に命脈を絶たれた。豊璋は福信を殺すことによって、自らの命綱も断ち切ってしまったのである。
百済が完全に滅んだあと、多くの遺民が日本を頼って渡ってきた。本国の百済では、義慈(ウィジャ)王の直系の子孫は絶えてしまったが、まだ日本には義慈王の息子である勇がいた。
豊璋が百済へ行ったとき、勇が同行したのかどうかは定かではない。同行して戻ってきたのか、あるいは、そのまま日本に住んでいたのか。いずれにしても、664年の時点で勇は畿内に住んでいた。こうして、百済王の直系の血は、日本に残された。
勇の曾孫の敬福は富を蓄積し、東大寺を建立するときに黄金を寄贈して王朝から称賛された。その功によって中宮と呼ばれる地域を拝領した。それが、今の枚方(ひらかた)市に当たる。
750年頃、敬福は朝廷の許しを得て、先祖を祀る寺として百済寺を建立した。敬福は、この百済寺に歴代の百済王の位牌を丁重に祀って、先祖の霊を慰め続けた。百済寺は、それから約400年間続いたのだが、いつのまにかつぶれてしまった。
■風水にかなった地理
百済寺は、今はもう建物の礎石以外は何も残っていない。その跡地に立ち、丘の上から枚方市の住宅地をながめた。
枚方市は戦前、砲弾の製造工場が多く、日本の砲弾のほぼ半分を製造する軍需産業の町だったという。
戦後は交通の便が良いことから、大阪と京都の間の住宅地として発展した。歴史的な文化財も多いので、大人の遠足にちょうどいい町である。
私は、百済王神社の拝殿を見たあと、帰路についた。よく見ると、京阪電車の線路に平行して天野川が流れていた。川幅は狭いが川岸に道が整備されていて、ランニングをしてる人の姿も見える。
天野川にかかる橋の上から、百済寺の跡地の方向を望む。地形のうえでは、丘があって、その前を川が通っている。
朝鮮半島の風水で言うと、山を背にして前に川という「背山臨水」に当たり、地理的に優れた場所ということになる。
それほど、天野川の存在が大きい。
■近江の鬼室神社
意外にも、豊璋に殺された福信も日本にその血を残している。
百済が完全に滅んだあと、福信の息子の鬼室集斯は一族郎党と一緒に日本に逃れてきた。王族の血筋だけに朝廷は鬼室集斯を優遇し、かなりの位階を与えて学識頭に任じた。
この学識頭とは、今でいえば教育を司る役所の長官をさす。本当に重要な役職を与えられるほど、鬼室集斯は朝廷から大きな期待をかけられていた。
鬼室集斯はその職務を全うし、晩年は近江の小野(この)に住んだ。その頃、近辺には百済系の渡来人が多く住んでおり、鬼室集斯は大きな尊敬を集めた。そして、688年に没し、彼を慕う人々によって近江の地に埋葬された。
その墓が、今も鬼室神社として残っているという。私は近江鉄道の日野駅で降り、タク
シーに乗って、小野の鬼室神社をめざした。
若い運転手さんが「小野のほうに行くには、いい道ができたので便利になりましたよ」と親しげに言った。
「前はかなり時間が掛かったんですか。」
「そうなんですよ。道を迂回しながら、山のほうに入っていかなければならなかったですからね。」
そんな話をしている間にトンネルをくぐった。仮にこのトンネルがなかったら、かなり迂回せざるを得ないだろうと思えた。
トンネルを抜けると山並みが迫っていた。その最後の平野部の真ん中に木々で囲まれた場所があり、そこが鬼室神社だった。
古びた本殿の裏に石祠があった。高さは1メートルほどで、石の扉の中に鬼室集斯の墓碑が納められているという。
扉を開けることはできず、実際に墓碑を見ることはできなかった。しかし、横の掲示板に墓碑の写真が載っている。それを見るかぎりは、高さ70センチほどで、コケシのようにくびれがある形をしていた。
私は石祠に向かって合掌したあと、そのそばでしばらく休んだ。
枚方の百済寺跡から鬼室神社までは、距離にしてどのくらいだろうか。
百済の再興を期した鬼室福信と豊璋。最後は仲間割れした2人だが、その血を受け継ぐ者がそれぞれ日本で重職に就いていたとは…。
百済は亡国となったが、その魂は日本に残ったということだろうか。
(終わり)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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