先祖の1人に、620年前の王妃がいる。
朝鮮王朝の初代王・太祖(テジョ)の第二夫人だった神徳(シンドク)王后・康(カン)氏である。
朝鮮王朝は一夫一婦制だったが、高麗王朝では重婚が許されていた。その高麗王朝の武将だった太祖には若いときに結婚した第一夫人がいたが、太祖が朝鮮王朝を建国する前年の1391年に亡くなった。彼女は死後に追尊されて神懿(シヌィ)王后・韓(ハン)氏と呼ばれた。
結局、建国当初の王妃には神徳王后・康氏が就いた。彼女は王朝創設期に大きな影響力を持っていたが、1396年に40歳で世を去った。
直後に、朝鮮王朝は大荒れとなった。神懿王后・韓氏と神徳王后・康氏のそれぞれの息子たちが、後継者の座をめぐって骨肉の争いを起こしたからだ。
勝ったのは、神懿王后・韓氏の息子たちだった。敗れた神徳王后・康氏の息子たちは殺され、親族は連座制で済州島(チェジュド)に流された。
そのときまで済州島には「康」という姓の者は1人もいなかったが、神徳王后・康氏の親族が流罪になってから大幅に増えた。その末裔の1人が私で、神徳王后・康氏から下ること19代である。
その間の先祖の名前はすべて把握している。それどころか、生没年、家族、肩書、墓地の場所までわかっている。
なぜそれが可能かというと、一族の詳しい系譜と個人の略歴を記した族譜(チョッポ)があるからだ。
■恐るべき継続性
族譜とは何か。
簡単に言えば、その一族の詳細な家系図である。
私の一族が所有する族譜は、千ページの書物が4冊そろって成り立っている。それを読むと、28代の私から初代まですぐにさかのぼれる。
ただし、勘違いしないでほしい。私の一族が特別に族譜があるのではない。韓国のすべての一族に族譜があり、それぞれの子孫が今も所有している。族譜がない一族は、韓国ではありえないのだ。
しかも、族譜は30年に一度くらいの割合で書き直されてきた。各一族には「宗親会」と呼ばれる長老会のような組織があり、そこが族譜の編集を受け持つのである。
日本では、数百年にわたる家系図がある家のほうがずっと少ないだろう。一般的な家庭なら、5代以上も前の先祖の名前を知らない場合が多いはずだ。
しかし、韓国では自分が一族の30代目であろうと40代目であろうと、先祖をどこまでもさかのぼって初代までたどりつくことができる。
すべては、何百年にわたって族譜を延々と編集し続けてきたおかげである。そのために、どれだけの労力が費やされてきたことであろうか。
気の遠くなるような話だ。その労力を他のことに使えば、どれほど国土の発展に結びついたことか。
しかし、経済の停滞をいかに招こうとも、当時の人々は先祖から族譜を受け継ぎ、さらに子孫に継承していった。
私も族譜を読む度に、この膨大な記録を作り続けてきた人々の継続性にただ驚かされるのである。
文=康 熙奉〔カン・ヒボン〕
(ロコレ提供)
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