■日清戦争が始まる
反乱の総大将は全琫準(チョン・ボンジュン)。彼に率いられた農民軍は5月末には全羅道をほぼ制圧しました。
危機に瀕した政府が清の軍隊に頼ろうとすると、すかさず日本も在留邦人の保護を名目に出兵の構えを見せました。
「清と日本に出兵の口実を与えてはならない」。
そう考えた全琫準は政府との和睦を実現させるのですが、それに構わず日本は出兵し、清の軍勢と衝突しました。もはや日本と清の戦闘は避けられなくなったのです。
1894年8月1日、日本は清に対して正式に宣戦を布告しました。ここに日清戦争が始まったのです。
戦争を遂行する日本の目的は、朝鮮半島を保護国にすることでした。実際、清との戦争中に朝鮮半島は日本の占領下に置かれました。
憤怒した農民軍は再び蜂起しましたが、日本軍に歯が立たず、全琫準は捕らえられて1895年3月に処刑されてしまいました。
■国号を「大韓帝国」に変更
日清戦争を有利に進めた日本は、1895年4月に清との間で日清講和条約(下関条約)を結び、莫大な利権を手中に収めました。
とりわけ大きかったのが、清の勢力を完全に朝鮮半島から追い出したことです。いよいよ日本の朝鮮半島支配に拍車がかかりました。
危機感を強めた朝鮮王朝は、ロシアに接近しました。とりわけ、明成(ミョンソン)皇后は日本に抵抗する姿勢を鮮明にしました。
日本は強硬手段に出て、1895年10月に王宮に乱入した一派が、明成皇后を暗殺しました。「国母」とも称される王妃が外国勢力に惨殺される、という信じがたい事件でした。
明成皇后亡きあと、朝鮮王朝には親日政権が誕生しました。しかし、1896年2月に26代王・高宗(コジョン)はひそかに王宮を脱出してロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを次々に処罰しました。以後、朝鮮王朝はロシア寄りの政治姿勢を鮮明にしたのです。
冬でも海面が凍結しない港がほしかったロシア。高宗を懐に引き入れたのは願ってもないことでした。
高宗がようやくロシア公使館から王宮に戻ったのは1年後のことでした。彼は1897年10月に国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝の座に就きました。
以前の朝鮮王朝は中国に気兼ねして自ら皇帝と称することはせず、格が1つ下がる形の「王」を自称していました。
しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになったのです。
■日韓併合への道
20世紀に入ると、日本とロシアの対立が非常に激しくなりました。もはや両国の軍事衝突は避けられない情勢となり、1904年2月に日露戦争が始まりました。朝鮮王朝は中立を宣言したのですが、日本は朝鮮王朝の意向を無視し、軍事力を背景に朝鮮半島の全土を支配下に置きました。
日本は1904年8月に第1次日韓協約を強要。朝鮮王朝は外交に関して日本と事前に協議することを求められました。もちろん、朝鮮王朝が拒めるはずもありません。
1905年9月には、日露講和条約が調印されてロシアは朝鮮半島から完全に追い出されました。すかさず日本は11月に第2次日韓協約(韓国保護条約)を調印。日本は統監府を設置し、朝鮮王朝は外交権を奪われました。もはや亡国が避けられない情勢となったのです。
起死回生を期して、高宗は1907年6月にオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送りました。
しかし、すでに朝鮮王朝が外交権を持たないことで失敗に終わり、高宗は日本の圧力によって7月19日に退位させられました。代わって27代王に就いたのは、高宗の息子の純宗(スンジョン)でした。
7月24日には第3次日韓協約が締結され、日本は朝鮮王朝の内政を掌握し、軍隊を解散させました。そうした政策を積極的に進めたのが韓国統監を務めた伊藤博文でしたが、彼は1909年10月に安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されました。
もはやどんな抵抗をしても、日本による朝鮮半島の植民地化は防ぎようがなかったのですが……。
ついにその日が来ました。1910年8月22日、「日韓併合ニ関スル条約」が調印されました。
その条文には「韓国皇帝がすべての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡する」と書かれています。“完全かつ永久”という表現が、朝鮮半島が軍事力で日本に取り込まれたことを強烈に物語っていました。
この条約は8月29日に公布されましたが、それによって518年続いた朝鮮王朝が滅びました。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、日本の植民地統治が始まったのです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕
発行/勉誠出版)
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