ユンホ(東方神起) の最新ニュースまとめ
■民主化の申し子
ユンホが生まれた1986年当時、韓国はまだ軍事政権が続いていた。言論・表現の自由が制限される中で、民主化を求める運動は激しさを増していた。4月にはソウル大学の学生2人が民主化を要求して焼身自殺する事件が起きている。
一方の日本では、バブル景気が始まった頃である。好景気に沸き始め、日本は異様なほどの消費社会に突入していく。玄界灘をはさんで、日韓の世相はあまりに対照的だった。そんな時期にユンホは韓国で生を受けたのである。
ユンホが1歳のときに、韓国は社会が引っ繰り返るほどに激変した。悪い意味ではない。韓国現代史の金字塔とも言える変化だった。
それは、民主化の達成だ。
全土を揺るがす民主化運動を力で押さえつけることができず、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は、国民の要求を呑む形で「言論・表現の自由」「直接選挙による大統領選出」などを決めた。
まさに「市民革命」と呼べるほどの変化だった。ユンホが1歳のときの出来事で、以後、彼は「民主化の申し子」として自由な風を感じて成長していく。
ただし、11歳のときに起きた「経済危機」には子供ながらにハラハラしただろう。
■経済危機が自立心を促す
1997年に韓国は「国の金庫が空になる」という危機に直面し、朝鮮戦争に次ぐ「第二の国難」と呼ばれた。
「国が破産するのではないか」
そう心配した人たちが、手持ちの貴金属を国に差し出す、という涙ぐましいことにもなった。絶対につぶれないと言われた財閥企業が倒産し、街には失業者があふれた。
11歳のユンホにとって、そんな危機的な社会はどのように映ったのか。「国に頼ってはいけない。1人でたくましく生きていかなければ」という思いを強くしたのではないだろうか。
いわば、子供にも「自立心を強く持たなければならない」と悟らせたのが、1997年の「経済危機」だった。
一方、ユンホが生まれ育った全羅(チョルラ)南道の道都・光州(クァンジュ)市は、広い平野に囲まれていて「食の都」と称される。
食べることに恵まれていた土地柄だけに、穏やかな道民性で知られるのだが、1980年には軍事政権に反旗をひるがえした「光州事件」で韓国現代史に重要な足跡を残している。
そのときは数多くの市民が軍によって虐殺されたが、民主化を先導した気骨は今も光州市民の誇りとするところである。
その精神は間違いなくユンホにも受け継がれている。
■光州でワールドカップを開催
光州に日本人が大挙してやってきたのが2002年6月だった。ユンホが16歳のときにFIFAワールドカップ日韓共催大会が開催されたが、韓国側10か所の開催都市に光州も含まれていた。市内のワールドカップ競技場では世界が注視する試合がいくつも行なわれた(当時のユンホはデビューに向けて歌と踊りのレッスンに明け暮れていたのだろうが…)。
同じ共催国の日本ではチケットの争奪戦が激しかったが、韓国ではそれほどでもなく、「生でワールドカップを見たい」という日本人の相当数が韓国に向かった。私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)も2002年6月に光州でワールドカップを観戦したが、競技場にあまりにも多くの日本人がいて驚いた記憶がある。
あのとき、日本から来た観客は、光州に来て何を思ったか。数年後にこの土地から素晴らしいスターが世に出ることは想像していなかっただろうが…。
ワールドカップ開催から1年半後の2003年12月、「東の方角から神が起きてくる」という壮大な叙事詩を彷彿させるグループが誕生した。「東方神起」である。
彼らの活躍は今さら説明するまでもない。
韓流ブームと一線を画す形で日本で大人気を獲得したのも、すべて彼らが持つ実力のなせるわざであっただろう。
■『国際市場で逢いましょう』
ユンホは、様々な作品に出演しているが、私が特に印象に残っているのは、映画『国際市場で逢いましょう』である。
ユンホの出演シーンは短かったが、とても重要な場面だった。彼は、同じ郷土出身の大物歌手ナム・ジンの役を演じていた。ナム・ジンはベトナム戦争に派兵されていたので、ユンホの出演シーンも戦場だった。
本来なら緊迫感がともなう「敵地からの脱出場面」なのだが、ユンホは伸びやかな演技で観客たちを楽しませた。
「なるほど。監督がユンホを起用した意図はここにあったのか」
そう納得できるように、戦場の場面でユンホは「生きる喜び」を表情であらわしていた。しかも、その軍服姿の凛々しいこと。その後の入隊を暗示するかのような役柄でもあった。
このようにユンホも出演していた『国際市場で逢いましょう』は、韓国の年配の人なら、涙なくして見られないだろう。まさに朝鮮戦争以来の韓国現代史がたっぷりと扱われているからだ。
この映画の中にとても印象的な言葉があった。それは、主人公が「つらい時代に生きて苦しみを味わったのが、子供たちでなく、自分たちで良かった」と言ったセリフである。主人公は朝鮮戦争のときに北から釜山(プサン)に逃れてきて塗炭の苦しみを味わっている。そうした親世代の苦労のおかげで、ユンホたちのN世代(1980年代後半に生まれた人たちはネットを駆使するのが得意なことからネット世代と呼ばれる)は、不自由のない暮らしができたのかもしれない。
そのことをユンホも感謝しているに違いない。
■「待つ楽しみ」を味わう
2012年8月に李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)が竹島(韓国名は独島〔トクト〕)に上陸して以来、日韓関係が政治的に悪化したのはユンホにとっても心苦しいことであっただろう。
大衆文化は政治と切り離して考えるべきものだが、日本と韓国は近い隣国同士だけに、単純にそういうわけにもいかない。政治問題が文化や交流にまで影響するのが、戦後の日韓関係だったのだ。
それにも関わらず、「東方神起」は日本の根強いファンに支えられた。彼らの活躍は狭い政治の枠を飛び越えて、普遍の世界を築いていた。それこそが「大衆文化の底知れぬパワー」と言えるかもしれない。
そのように、日韓の呪縛を乗り越えた「東方神起」であったが、韓国の兵役法だけは素直に受け入れなければならなかった。その結果、ユンホは30歳の誕生日を兵役中の軍で迎えることになった。韓国でも少ないケースと言える。多くの男子は20代前半で兵役を終えているからである。
スターを夢見た頃から走り続けてきたユンホ。韓国の激変と共に歩んできたユンホ。今、30歳になったユンホだからこそ、兵役の中で悟れることが多いのではないか。20代前半ではまだ気づかないことが、一般社会から離れた軍の中にいると、様々にわかってくるに違いない。
ファンは今、「待つ楽しみ」を味わっている。ときには寂しいかもしれないが、「信頼して待つ」ことは、最愛の人への最高の励ましだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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