■百済王の使者が来日
仏教が日本に伝来した年は、552年(壬申年)と538年(戊午年)という2つの説がある。
552年説は『日本書紀』の記述が根拠だ。一方、538年説は『元興寺縁起』(飛鳥寺の後身となる元興寺の由来を説明した書)や『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)が元になっている。
山川出版社の高校教科書『日本史』は538年説が有力だと紹介しているが、552年説を支持する学者もいる。
年を確定する明確な証拠はまだない。
いずれにしても、百済の聖王の使者が来日して、欽明天皇に釈迦仏の金銅像と経論などを贈呈した。
使者は口上を述べた。
「仏教は多くの法の中でも一番優れています。遠く天竺(インド)から三韓(朝鮮半島)まで、人々が仏教の教えにしたがっています。百済王はつつしんで倭国に伝え、仏の道が広く伝わることを願っております」
■2大勢力の対立
欽明天皇や側近の者たちは金色に輝く釈迦像を見て感動した。
それでも、欽明天皇は慎重に言葉を選んだ。
「余は今までこのような法を聞いていなかったのだが……。ここに集まった諸臣たちよ、西からもたらされた仏は、いまだ見たことがないほど端麗の美をそなえているが、果たしてこれを祀るべきかどうか」
欽明天皇は側近たちに意見を求めた。
すぐに口を開いたのが蘇我稲目(そがのいなめ)だった。
「西の国々ではどこも礼拝しています。我が国だけが、どうして知らないままで済ませられるでしょうか」
賛成する蘇我稲目に異議を唱えたのは物部尾輿(もののべのおこし)である。
「帝が世の主としてあられるのは、この地の神を春夏秋冬に祀られておられるからです。外来の神を拝むことになりますと、我が神のお怒りを受けることになりかねません」
政権を支える2大勢力の意見が真っ向から対立した。
欽明天皇は蘇我氏と物部氏の間をとりもちながらも、やや蘇我氏寄りの判断をした。
「稲目に授けるゆえ、試しに拝んでみたらどうか」
蘇我稲目は喜び、仰々しく平伏した。
■仏教排斥の動き
屋敷に戻った蘇我稲目は、仏像を安置して、百済の使者から教わったとおりに拝み続けた。
後には小さな寺まで造り、蘇我稲目は仏道を究めようとした。
折り悪く、疫病がはやって若死にする者が続出した。
批判の声を強める物部尾輿は、欽明天皇に上訴した。
「臣が反対しましたが、聞き入れられず、世に病死が増えました。あの仏を早めに捨てて、世を平穏にすべきではないでしょうか」
欽明天皇も賛意を示した。
物部尾輿はすぐに蘇我稲目から仏像を取り上げて、難波の堀江に捨てた。さらには、見せしめとして寺に火をつけた。
不思議なことが起こった。
晴天で無風だったのに、宮の大殿に火事が起きた。
仏がお怒りになったのだろうか。
それから半年ほど後のことである。
河内の国から報告があった。
「海中から、仏教の礼拝時に奏でるような音がしてきます」
欽明天皇は使者を送って調べさせた。
すると、海中から光り輝くクスノキが発見された。
欽明天皇はそのクスノキで仏像二体を作らせた。物部氏の猛反対にもかかわらず、仏教を邪神とみなしていないのだ。何よりも、当時の大陸で普遍的に信仰されているという事実を重んじた。
文=康熙奉(カン・ヒボン)
出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)
(ロコレ提供)
Copyrights(C)wowkorea.jp 0