6世紀の朝鮮半島。高句麗(コグリョ)、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)の三国が激しい領土争いをしていた。百済は、新羅の背後にある日本と良好な関係を築きたいと願っていた。それが、新羅を牽制する最良の方法だと信じていた。そこで、百済の第26代・聖王(ソンワン/日本では聖明王と呼ばれている)は、日本に仏教を伝えることにしたのである。

■百済王の使者が来日
 仏教が日本に伝来した年は、552年(壬申年)と538年(戊午年)という2つの説がある。

 552年説は『日本書紀』の記述が根拠だ。一方、538年説は『元興寺縁起』(飛鳥寺の後身となる元興寺の由来を説明した書)や『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)が元になっている。

 山川出版社の高校教科書『日本史』は538年説が有力だと紹介しているが、552年説を支持する学者もいる。

 年を確定する明確な証拠はまだない。

 いずれにしても、百済の聖王の使者が来日して、欽明天皇に釈迦仏の金銅像と経論などを贈呈した。

 使者は口上を述べた。

「仏教は多くの法の中でも一番優れています。遠く天竺(インド)から三韓(朝鮮半島)まで、人々が仏教の教えにしたがっています。百済王はつつしんで倭国に伝え、仏の道が広く伝わることを願っております」

■2大勢力の対立

 欽明天皇や側近の者たちは金色に輝く釈迦像を見て感動した。

 それでも、欽明天皇は慎重に言葉を選んだ。

「余は今までこのような法を聞いていなかったのだが……。ここに集まった諸臣たちよ、西からもたらされた仏は、いまだ見たことがないほど端麗の美をそなえているが、果たしてこれを祀るべきかどうか」

 欽明天皇は側近たちに意見を求めた。

 すぐに口を開いたのが蘇我稲目(そがのいなめ)だった。

「西の国々ではどこも礼拝しています。我が国だけが、どうして知らないままで済ませられるでしょうか」

 賛成する蘇我稲目に異議を唱えたのは物部尾輿(もののべのおこし)である。

「帝が世の主としてあられるのは、この地の神を春夏秋冬に祀られておられるからです。外来の神を拝むことになりますと、我が神のお怒りを受けることになりかねません」

 政権を支える2大勢力の意見が真っ向から対立した。

 欽明天皇は蘇我氏と物部氏の間をとりもちながらも、やや蘇我氏寄りの判断をした。

「稲目に授けるゆえ、試しに拝んでみたらどうか」

 蘇我稲目は喜び、仰々しく平伏した。

■仏教排斥の動き

 屋敷に戻った蘇我稲目は、仏像を安置して、百済の使者から教わったとおりに拝み続けた。

 後には小さな寺まで造り、蘇我稲目は仏道を究めようとした。

 折り悪く、疫病がはやって若死にする者が続出した。

 批判の声を強める物部尾輿は、欽明天皇に上訴した。

「臣が反対しましたが、聞き入れられず、世に病死が増えました。あの仏を早めに捨てて、世を平穏にすべきではないでしょうか」

 欽明天皇も賛意を示した。

 物部尾輿はすぐに蘇我稲目から仏像を取り上げて、難波の堀江に捨てた。さらには、見せしめとして寺に火をつけた。

 不思議なことが起こった。

 晴天で無風だったのに、宮の大殿に火事が起きた。

 仏がお怒りになったのだろうか。

 それから半年ほど後のことである。

 河内の国から報告があった。

「海中から、仏教の礼拝時に奏でるような音がしてきます」

 欽明天皇は使者を送って調べさせた。

 すると、海中から光り輝くクスノキが発見された。

 欽明天皇はそのクスノキで仏像二体を作らせた。物部氏の猛反対にもかかわらず、仏教を邪神とみなしていないのだ。何よりも、当時の大陸で普遍的に信仰されているという事実を重んじた。

文=康熙奉(カン・ヒボン)

出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)
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