韓国ドラマ「テバク~運命の瞬間(とき)~」のネタバレあらすじ、キャスト、視聴率、相関図、感想
■謎の多い人物
「テバク」で李麟佐に扮していたのがチョン・グァンリョルであった。演技がうまいことで定評がある俳優だけに、李麟佐の役もピタリとはまっていた。
ときには策士で、ときにはウラ社会の大物で、ときにはトボけた中年男……多彩な顔を持つ李麟佐という役をチョン・グァンリョルが抜群の間合いで演じ分けて、視聴者からも喝采を浴びていた。
それにしても、脚本家はなぜ李麟佐をこれほどまで「テバク」の中で重宝したのだろうか。李麟佐がストーリーを先導する役目を一手に引き受けていたことは間違いないし、李麟佐なくしては主役のテギル(チャン・グンソク)も動きようがない有様だった。「影の主人公」と呼ばれるのも無理はない。
この李麟佐は、歴史的に重大な反乱を起こした人物として知られる。ただし、生まれた年はわかっていない。
かなり謎が多い人物だったのである。
■悪評にまみれた英祖
「テバク」の中で、朝鮮王朝21代王・英祖(ヨンジョ)を若手俳優のヨ・ジングが演じていた。
英祖は、息子(思悼世子〔サドセジャ〕)を米びつに閉じ込めて餓死させた王として知られる。非道な父親と思われるが、政治的には名君という評価を得ている。
彼は、政権中枢で派閥争いが激化していた時代に、平等な人事登用を心掛けて成果をあげたのである。
ただし、1724年に即位したときは、悪い噂を盛んに流布された。兄の20代王・景宗(キョンジョン)を毒殺して王の座を手に入れたとか、父親の19代王・粛宗(スクチョン)の本当の息子ではなかったとか……。
こういう噂を立てられること自体、英祖には即位当初からダーティーなイメージが付きまとっていた。
それは、噂だけにとどまらなかった。英祖を倒すための反乱まで実際に起きているのである。
そうした反乱の首謀者になったのが李麟佐である。
それは1728年のことだった。
果たして、どんなことが起こったのか。
当時の経緯を見てみよう。
■「大元帥」と自称した男
英祖の兄の景宗は、父親の粛宗が亡くなった1720年に即位したが、当時は景宗を支持する少論派と、英祖を支持する老論派の主導権争いが激しかった。
景宗が即位からわずか4年で世を去って異母弟の英祖が即位したのだが、少論派は「英祖が景宗を毒殺した」と猛反発した。そうした少論派と結託する形で1728年に大々的な反乱を起こしたのが李麟佐だった。
彼はもともと清州(チョンジュ/都から東南側に130キロ離れた都市)に住んでいたが、1724年3月に郎党を率いて清州城を攻めて占領した。
勝ち誇った李麟佐は自らを「大元帥」と称した。彼は「景宗のための復讐だ」という大義名分を掲げ、景宗の位牌をあえて用意して、それを拝み続けた。「義は我らにある」という姿勢を見せて、同志を募ったのである。
兵力を増やした李麟佐の軍は、北上を開始して都をめざした。賛同する者も多かったが、李麟佐に「大元帥」と称するほどの統率力があったのかどうか。
彼は景宗の名を借りて、自らの野心をふくらませただけではなかったのか。
大義名分を掲げて北上して都に迫ったものの、最後は官軍に大敗して、李麟佐は生け捕りにされたあとに処刑された。
■ドラマでさらに有名になった
李麟佐が起こした反乱は、歴史的にも「李麟佐の乱」と呼ばれて朝鮮王朝史に強烈に残っている。
英祖にしてみれば、即位後に訪れた最大の危機だったのだが、これを鎮圧することで王権を強化することができた。
以後は安定した政治運営を続けた英祖は、朝鮮王朝の27人の王の中で一番長生きした。彼の王政は、なんと52年も続いたのだ。これは、他の王と比べても、ダントツの長さである。
結果的に、英祖の王政を強くする役回りを演じた李麟佐。「テバク」の中では、粛宗や英祖とひんぱんに会っていたが、歴史的にそれは不可能である。地方で反乱の首謀者になっただけなのだから……。
そうした人物が「テバク」の影の主人公になり、物語を自在に動かすキーパーソンにおさまっていた。演じたのが名優のチョン・グァンリョルであったから、李麟佐も等身大以上の大人物に描かれていたのである。
間違いなく、「テバク」は歴史上の李麟佐を韓国でさらに有名にしたことだろう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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