■「東海の名勝」のその後
江戸時代、海の沖合に三保の松原が見える風景はよほどすばらしかったようで、この清見寺に立ち寄ることが朝鮮通信使の楽しみの一つだった。
ただし、福禅寺からの景観は、現在も朝鮮通信使の一行が見たものとほとんど同じだが、「東海の名勝」は明治以降に一変してしまった。
まず、広大な清見寺の境内を東海道本線が横切るようになったし、目の前の海は埋め立てられて工場が立ち並び、三保の松原も見えなくなっている。
日本の大動脈に位置していたがゆえに、開発という名のもとで景観がすっかり変わってしまった。
それでも、清見寺が朝鮮通信使と深い縁を持っていたという事実は変わらない。なにしろ、朝鮮通信使が記した書画が最も数多く残っているのが清見寺であり、国から「朝鮮通信使史跡」に指定されているほどである。
その清見寺は、東海道本線の興津駅の近くにある。
■「東海名區」と書かれた扁額
改札口を出てから国道1号線を西に歩くこと10分、清見寺の山門が見えてきた。その手前には、関所跡がある。
この関所は「清見関(きよみがせき)」と呼ばれ、その関所の鎮護として仏堂が建てられたのが清見寺の始まりと伝えられている。
清見寺の周辺は山が海まで迫っているので自然と要害の地となり、戦乱の際には争奪戦が激しく展開されたという。
その後、寺は江戸時代を通して徳川家に保護され、朝鮮通信使だけでなく、琉球王朝の使節を接待する宿舎としても使われた。
山門の前に立つ。「東海名區」と揮毫された扁額がかかっていたが、それをゆっくり見ていると、列車が轟音を立てて通過して行った。山門の裏手はすぐ東海道本線の線路が走っていて、完全に山門だけが孤立している。
階段を昇って山門をくぐると道が左側に旋回していて、そのまま東海道線をまたぐ陸橋になっている。道なりに進んで、清見寺の正門に至った。
中に入ると、仏殿、方丈、鐘楼が見渡せる。往時の寺の隆盛ぶりを伝えるかのように、重厚な雰囲気が漂う。
大方丈に上がると、壁にかけられた数多くの扁額が目立っている。
扁額のほとんどは、朝鮮通信使が残したものだという。その一つひとつを見ていると、「清見寺が朝鮮通信使にいかに愛されたか」がよくわかった。
■朝鮮通信使の正使の漢詩
扁額の中でひときわ印象的だったのが、1607年の第1回目の朝鮮通信使(正式にはまだ「回答兼刷還使」)の正使だった呂祐吉(リョ・ウギル)の七言絶句である。
次のように書かれてある。
蓬島茫々落日愁
海雲飛尽白鴎洲
東来不過清山寺
孤負扶桑此壮遊
これは、読み下し文にすると「蓬島茫々たり落日の愁い、海雲飛び尽くす白鴎の洲、東来して過ぎらず清山寺、扶桑に孤負す此の壮遊」と読むことができる。
静岡市のフェルケール博物館が発行した『朝鮮通信使と清見寺』に掲載された「家康・清見寺と通信使」(著者は渡辺康弘氏)には現代訳が次のように紹介されている。
「東海中にあるという神仙の山、蓬莱島かと思わせる長い島が望まれるが、日が落ちて茫々としている。海上の雲は消え去り、白鴎が舞っているのみである。刷還使として日本と交渉するために東に向けてやってきたのであるが、江戸の往復に清見寺に立ち寄ったのである。今、帰路にあたり宿泊する清見寺からの眺望は日本離れしており、旅の目的も果たす事ができて、何とも壮大な旅であったことよ」
特に、最後の「壮遊」という言葉の中に、呂祐吉の晴々とした気持ちが込められている。難しい交渉事で異国にやってきて、どれほど緊張していたことだろうか。それが成功に終わったあとに立ち寄った清見寺で、彼は外に広がる絶景を心から堪能することができたのである。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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