朝鮮通信使が愛した清見寺の庭
朝鮮通信使が愛した清見寺の庭
1607年、江戸時代に初めて来日した朝鮮通信使には、徳川家康に朝鮮国王の国書を渡すという重要な任務があった。彼ら一行が江戸をめざして東海道を進んで浜松に至ったとき、2年前に将軍職を息子の秀忠に譲った家康が駿府(静岡)にいるという情報が伝わってきた。

■家康から受けた歓待

 朝鮮通信使の正使だった呂祐吉(リョ・ウギル)は、なんとしても家康に朝鮮王朝の国書を直接渡したかったのだが、幕府側から、江戸城にいる2代将軍・秀忠に差し出してほしいと要請された。

 家康からも同じ意向がもたらされたので、呂祐吉たちは帰路に駿府で家康に会うことにした。

 そして、無事に江戸城で国書伝達を終えた呂祐吉たちは、帰路に清見寺に宿泊した。

 家康のはからいで遊覧船が用意され、通信使の一行は海上から三保の松原の景色を堪能した。

 それから、駿府城で家康に謁見し、贅を尽くした歓待を受けた。その際、家康は「これからはお互いによく通じ合うようにしましょう」と通信使に温かい声をかけたという。この場で信頼関係が築かれ、両国の善隣友好関係の基礎が固まった。

■清見寺の庭の美しさ

 朝鮮王朝側も家康の功績を評価し、後に来日した朝鮮通信使の中には、家康が祀られている日光東照宮まで行って家康廟の前で儒教式の祭祀儀礼を行なった者もいた。

 このように、家康は朝鮮通信使と密接な縁を持っていたのだが、清見寺を見学していて家康の「手習いの間」があるのを知って驚いた。

 彼は幼少時代に今川義元の人質として駿府の臨済寺に住んだが、同じ宗派の清見寺を訪ねていたという。その「手習いの間」は北側を向いた狭い部屋だが、清見寺の庭を一望することができる。

 のちに、家康はこの庭を愛し、隠居して大御所になってからも、しばしば清見寺を訪ねた。駿府城から石を移して配したり、梅や柏などを手植えしたという。

 私は「手習いの間」の近くに佇んで、しばらく庭を見ていた。

 朝鮮通信使の一行が清見寺に宿泊したのは最初の頃だけだったが、この地の景観のすばらしさは有名だったので、代々の朝鮮通信使は清見寺によく立ち寄り、しばしの休憩を取った。

 その際に朝鮮通信使の随員と清見寺の人々が活発に文化交流を行なったので、今でも清見寺には数多くの書画が残り、その一部を木版に複写して大方丈に掲げている。

 さらに、朝鮮通信使の一行を喜ばせたのが、清見寺の庭の美しさだった。自然の傾斜地を巧みに利用しているが、奇岩の間を通ってくる瀑布も味わいがある。

 それらを鑑賞したあと、私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)は眺めのいい部屋に行って海の方向を見た。

 かつては清見潟と呼ばれていて、西行法師も「清見がた沖の岩こす白波に 光をかはす秋の夜のつき」と詠んだとい海岸線も、今はバイバスの高架道路や工場などによってまったく見えなかった。

 朝鮮通信使がどれほど風景に感嘆して「東海の名勝」と褒め讃えたのか。今では想像すらできなかった。

■駿府城に住んだ家康

 清見寺を辞し、静岡駅から徒歩10分ほどの駿府公園に行った。

 徳川家康の居城として有名なだけに天守閣が再現されていると思ったのだが、城跡が平坦な公園になっているだけだった。

 それでも、本丸跡に家康の銅像が建っていた。その像は鷹狩りの出で立ちだった。

 1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた家康は、わずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲った。こんなに早く隠居したのは、将軍職が徳川家の世襲であることを示すためであった。

 これによって諸大名たちも政権が豊臣家に戻ることがなくなったことを明確に悟ったのである。

 隠居した家康は駿府城に住んだ。「江戸のほうが便利なのに、なぜ小さな町に移るのですか」と問われた家康はこう答えた。

「一に、駿河には富士山という名山がある。二に、鷹狩りにいい場所だ。三に、名産として美味しい茄子がある」

 初夢に縁起がいいものとして「富士、鷹、茄子」がよく挙げられるが、それは家康の言葉から始まったという。

 その家康の像が立っている場所は駿府城の本丸跡だった。ということは、まさにそこで家康は朝鮮通信使を謁見したのかもしれない。饗応の宴には、家康が絶賛した茄子の料理が出たかもしれない。

 急に、茄子が食べたくなった。

(終わり)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)


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