歴史上では大きく表には出てきませんが、「朝鮮王朝の3大妖女」と呼ばれる女性たちがいます。その3人は、廃妃・尹氏、金介屎、貴人・趙氏です。それぞれ、どんな女性だったのでしょうか。(写真提供:ロコレ)
歴史上では大きく表には出てきませんが、「朝鮮王朝の3大妖女」と呼ばれる女性たちがいます。その3人は、廃妃・尹氏、金介屎、貴人・趙氏です。それぞれ、どんな女性だったのでしょうか。(写真提供:ロコレ)
歴史上では大きく表には出てきませんが、「朝鮮王朝の3大妖女」と呼ばれる女性たちがいます。その3人は、廃妃(ペビ)・尹(ユン)氏、金介屎(キム・ゲシ)、貴人(キイン)・趙(チョ)氏です。それぞれ、どんな女性だったのでしょうか。

韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」のネタバレあらすじ、キャスト、視聴率、相関図、感想


■嫁を嫌った姑

 廃妃(ペビ)・尹(ユン)氏は、『宮廷女官 チャングムの誓い』の第1話で、毒薬を飲んで死んでしまう元王妃ですが、もともとは9代王・成宗(ソンジョン)の側室でした。側室時代は、そんなに我を通していなかったので、成宗の祖母に当たる貞熹(チョンヒ)王后〔7代王・世祖(セジョ)の妻で当時の王族最長老〕に気に入られました。

 成宗の正室が亡くなった後、再婚相手として新しい正室になったのが尹氏です。このように、朝鮮王朝では、側室から王妃になるケースが何度もありました。

 尹氏は、王妃になった途端に性格が変わりました。自分が側室から王妃になりながら、今度は成宗の側室に極端な嫉妬を感じて、彼が気に入っている側室を毒殺しようとしたり、呪い殺そうとしました。

 朝鮮王朝時代には本当に人を呪い殺せると思っていましたので、人を呪詛(じゅそ)するというのは、大変な罪になります。それがわかっていながら尹氏は実行しています。

 しかし、呪詛や毒薬に関する書物を部屋に保管していることが発覚して、尹氏は大変苦しい立場に置かれます。

 成宗の母親は仁粋(インス)大妃です。彼女は学問に秀でた女性で、朝鮮王朝時代の淑女の教科書と言われた『内訓(ネフン)』という本を自ら書いています。この仁粋大妃が尹氏のことを大変嫌っていました。尹氏は小さいころに父親を亡くしまして、名門出身ではありますが、経済的にかなり苦しい家庭で育っていました。仁粋大妃は尹氏のことを「育ちが貧しい」と嫌ったのです。


■暴君・燕山君の実母

 仁粋大妃の厳しいイジメにあった尹氏は、魔が差したのか、成宗の顔を引っかいてしまいます。仁粋大妃の怒りをさらに買って、1479年に王宮から出されて廃妃となりました。

 大いに反省した尹氏は、実家で質素に暮らしました。廃妃になりますと、国家からの支援があまりありません。何年か経つと、尹氏の実家が大変困窮しているという噂が流れました。成宗も「あまりに生活が苦しいようであれば、王宮に呼び戻して支援してあげよう」と思っていました。

 それで、様子を見るために使者を派遣したわけです。その使者は、確かに尹氏が反省して質素に暮らしていることを見ましたので、その通り報告しようとしました。しかし、途上で仁粋大妃に呼び出されて、「あの女は図々しい暮らしをしていたと殿下に報告せよ」と、偽りの報告を強要されました。

 使者はそれに抗うことができず、仁粋大妃の指図どおりに偽りの報告をしました。それを聞いて怒った成宗によって、尹氏は1482年に自害に追い込まれました。

 もとはと言えば尹氏も、側室を殺そうとしたり、王の顔を引っかいたりしていますが、彼女が反省したことは事実です。逆に仁粋大妃が策略で、元王妃を死にいたらしめたわけです。どちらが本当に悪なのか、と問わざるを得ません。

 自害した尹氏の息子が、10代王・燕山君(ヨンサングン)です。このとき彼はまだ小さかったので、真相を知りませんでした。王になった後でそれを知り、逆上して母親の死に関わった人たちを1504年にみんな処刑しました。すでに死んでいる人に関しては、その墓を暴いて首をはねるという残虐なことをしました。

 仁粋大妃は燕山君から見れば祖母になりますが、逆上した燕山君は仁粋大妃に頭突きをくらわせました。それが原因で、1週間くらいで仁粋大妃が亡くなってしまいます。燕山君は自分の祖母まで死に至らしめたのです。彼がクーデターで王宮から追放されたのは、それから2年後のことです。


■王の背後で暗躍した妖女

 金介屎(キム・ゲシ)は韓国時代劇の『王の女』の主人公になっています。

 もともとは、14代王・宣祖(ソンジョ)のお付きの女官でした。金介屎はとても頭脳明晰だったようで、宣祖が気に入ってすぐにそばに置きました。相当能力を買われていたのでしょう。彼女は、宣祖の跡目争いで彼の側室が生んだ二男の光海君(クァンヘグン)を支持します。

 光海君は兄の臨海君(イメグン)と王位をめぐって争います。順番から言えば、長男の臨海君のほうが世子(セジャ/王の正式な後継者)になる可能性が高いのですが、最後は光海君が世子になります。その過程には金介屎の大きな働きがあったと推定されます。

 1606年に宣祖の正室が永昌大君(ヨンチャンデグン)を産みました。宣祖は、やっぱり正室から生まれた息子のほうを重んじようという気持ちがあり、世子を光海君から永昌大君に変えようとしました。

 1608年に宣祖が亡くなり、状況が変わりました。当時わずか2歳だった永昌大君が王になるのは無理な話で、予定通り光海君が王になりました。しかし、兄の臨海君、弟の永昌大君の両方の勢力が、隙があれば光海君から王位を奪おうとしていました。

 それを感じた金介屎は、いち早く手をまわして、1609年に臨海君を殺し、1614年に永昌大君を殺害しています。彼女は光海君が王位に就く際に貢献しましたし、王位に就いた後も、光海君の王座を安泰させようとして暗躍しました。

 彼女は、貧しい家の出身でしたがとても頭が良く、むしろ、科挙に合格して出世している高官たちを自由に操って、悪事を働きました。

 しかし、光海君が1623年にクーデターで王位を追われた瞬間に金介屎の運命も暗転します。彼女はすぐに命を奪われてしまいます。最期は悲惨でした。

 そして、16代王・仁祖(インジョ)が即位します。ここから、話は貴人(キイン)・趙(チョ)氏に変わります。


■帰国後に急死した世子

 仁祖は、クーデターを起こす前は行動力があり、立派な人物だったのですが、王になった途端に政治的な失敗が多くなりました。結果的に、旧満州(現在の中国東北部)を根拠地にしていた後金を野蛮な国だと侮るばかりで、外交に失敗しました。やがて大軍で攻められて、1637年1月に、都を流れる漢江(ハンガン)のほとりで土下座のような形で清(後金から国号を変更)の皇帝に謝罪して、なんとか許しを得ました。これは、仁祖にとって最大の屈辱となりました。

 息子たち3人も人質として清に連れていかれました。仁祖は最初の妻を亡くしていたので、王宮で寂しく暮らしました。

 そのときに側室として仁祖をなぐさめたのが趙氏です。

 本当の妖女はこういう人かと思うくらい、側室の趙氏は裏で動きます。彼女は仁祖の娘や息子を産んでおり、王の威光をかさにやりたい放題になります。

 1645年2月、長く清で人質生活を送っていた仁祖の長男・昭顕(ソヒョン)が帰国しました。彼は世子だったので、仁祖にとってうれしいはずなのですが、事情はまるで違いました。

 昭顕は8年間の清での人質生活を経て、清の文明に感銘していました。朝鮮王朝も清を見習って制度を変えていかなければいけないと改革の志に燃えたのですが、これが仁祖の逆鱗に触れました。仁祖は自分に屈辱を与えた清を心から憎んでいたからです。

 8年ぶりの親子対面で、仁祖は怒りのあまり昭顕に向かって硯を投げつけました。親子の仲が決定的に裂かれたのです。その2か月後に、昭顕は高熱を発して倒れます。マラリアと診断されましたが、当時のマラリアは、死ぬ場合もありますが、治る場合も多くありました。

 マラリアを治すために昭顕は鍼治療を受けたのですが、わずか2、3日で彼は亡くなってしまいます。その直後に、鍼に毒が塗られていたのではないかという噂が流れます。


■それぞれが悲惨な最期

『朝鮮王朝実録』には、昭顕の口や目や耳や鼻など7つの穴から血が噴き出して体が黒ずんでいた、という記録が残っており、いかにも毒殺されたときの症状だと記載されています。その鍼を打ったのが、趙氏の実家に出入りしていた医者でした。疑惑は深まるばかりですが、趙氏の関与が大いに疑われていました。

 昭顕の妻の世子嬪(セジャビン)と言えば、後々王妃になる人ですが、姓を姜(カン)氏と言いました。彼女と趙氏は極端に仲が悪かったと言われていまして、趙氏は昭顕を毒殺しただけに飽き足らず、姜氏も陥れたのです。実は、仁祖が食べるアワビに毒が盛られるという事件が起こり、姜氏が疑われて死罪にされました。それも趙氏の仕業ではないかと言われています。

 昭顕は仁祖の正室から生まれた長男ですが、趙氏も側室でありながら仁祖の息子を産んでおり、その息子を王位に就けたいという欲望があったので、趙氏はそこまで暗躍したのでしょう。

 実際、清にかぶれた昭顕を仁祖が苦々しく思っていたことを察した趙氏が、自分の配下の医者を使って、昭顕を鍼で毒殺したと推定されます。

 しかも、昭顕の妻の姜氏までも……。

 本当に恐ろしい女性です。

 ただし、趙氏は仁祖が生きている間は栄華を誇りましたが、仁祖が亡くなって昭顕の弟が王位に就いた後は、死罪になっています。それまでの悪行が仁祖亡き後に露見したりして、死は免れませんでした。

 こうしてみると、廃妃・尹氏、金介屎、貴人・趙氏も、それぞれ悲惨な最期になっています。これも因果応報なのでしょうか。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=電子書籍版『康熙奉講演録』
(ロコレ提供)

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