佐賀市の阿弥陀寺にある洪浩然の墓(写真提供:ロコレ)
佐賀市の阿弥陀寺にある洪浩然の墓(写真提供:ロコレ)
朝鮮出兵の際に、豊臣軍の大名たちは大勢の人を日本に連れ去った。主に農民だったが、陶工や学者も多かった。さらに、利発な少年を連れ去る大名も少なくなかった。その少年の1人が洪浩然(ホン・ホヨン)だった。彼は、朝鮮半島南部の晋州(チンジュ)で佐賀藩主の鍋島直茂にとらわれた。1593年6月のことだった。


■日本で学問を積んだ洪浩然

 鍋島直茂は利発な少年が後々に役に立つ存在になると思い、佐賀に送った。

 洪浩然の家族は豊臣軍に殺されていた。孤独になった少年にとって、日本に対する憎しみがどれだけ強かったことか。

 そんな洪浩然を興味深く見つめたのが、鍋島直茂の息子の勝茂であった。勝茂はそのとき13歳で、洪浩然より1歳年上であった。

 しかしながら、自分より年下の少年が達筆で文章を書くのを見て驚いた。

 ……なぜ朝鮮半島の子供は、学問に優れているのか。

 洪浩然としても、勝茂が領主の息子であることを理解しなければならなかった。何かと興味を向けてくる勝茂に対して洪浩然も少しずつ心を開いていった。

 1598年に戦乱が終わり、本来なら捕虜として日本に連れてきた者たちを朝鮮半島に返すべきなのだが、鍋島直茂はそうせずに、洪浩然を京都に留学させた。

 鍋島直茂は、洪浩然を学者にする腹積もりだった。

 洪浩然は京都で儒教や仏教を学んで佐賀藩に帰ってきた。

 やがて鍋島直茂が世を去り、勝茂が継いだ。

 藩主となった勝茂は、信頼する洪浩然を大いに取り立てた。その頃には、洪浩然の名声も高まり、彼に教えを乞う人たちが絶えなかった。


■悩んだ末に帰国を決意

 大いに出世しても、洪浩然は故郷に帰りたかった。望郷の念は歳と共に増すものである。しかし、ジレンマがあった。彼は日本で結婚をしており、最初の妻は先に亡くなったが、再婚もして子供が何人もいた。日本に基盤ができてしまっており、帰ろうにも帰れない状況であったのは確かだ。

 しかし、白髪の老人になってから、やはり最後は故郷に戻りたかった。その思いが断ちきれなくなり、ついに勝茂に願いでた。

「年齢を重ねて、さしたる用もなくなったようです。かくなるうえは、ぜひとも故郷で一生を終えたいと存じます」

「それは困る。そなたがぜひとも必要なのだ。考え直してはくれぬか」

「よくよく考えた末なのでございます。なにとぞ願いを叶えさせてくださいませ」

 勝茂は洪浩然の目を見た。

 異国に連れてこられてから数十年、その悲しみをようやく理解したような気がした。勝茂はそれ以上は言えず、ただうなずくしかなかった。

 帰国が許された洪浩然。妻子や友人たちが強く引きとめたが、彼は決心を変えなかった。故郷でぜひとも両親の供養をして自らの生を終えたいと考えていた。

 いよいよ帰国の日、洪浩然は港がある唐津に向かった。後ろ髪を引かれる思いであったが、振り返らなかった。唐津に行けば、釜山に行く船が待っているはずだった。


■主君の懇願

 唐津に近づいたとき、追いかけてくる早馬があった。

「何ごとなのか」

 洪浩然はその早馬をいぶかしげに見た。

 なんと勝茂が送ってきた使者だった。

「殿の伝言があります。至急お戻りください」

「どんなご用が?」

「お戻りになれば話されるそうです」

 早馬まで来ているのである。ここは戻らなければならないと洪浩然は思った。

 引き返して勝茂の前に出ると、思わぬ言葉が耳に入ってきた。

「そなたが行ってしまってから、とにかく寂しい。たまらない気持ちなのだ」

「同様でございます。それでも行かなければならない心中をお察しください」

「察しておるが、それでもそなたを失うことは辛すぎる。このままここに残ってくれ」

「…………」

「帰っても誰がおるというのか。そなたの国は今やここなのだ。妻もいれば友人もいるではないか」

「それもすべて承知の上で」

「どうしても合点がいかぬ。やはりここに残ってほしい」

 勝茂の懇願を受けて、洪浩然は我が身の不運を嘆いた。

 気持ちはすでに故郷に飛んでいた。あれほど帰りたかった故郷はもう目の前にあった。しかし、前言を翻して主君が帰ってはいけないと言う。

 果たして、どうすべきなのか。


■叶わなかった願い

 洪浩然は絶望的な気持ちになった。

 無残に殺された父と母。その無念の思いを少しでも慰めたいというのが、白髪になった老人の最後の願いであった。それさえも……。

 様々な想いが洪浩然の頭の中を駆けめぐった。

 しかし、何をどう考えても、故郷に帰ることを断念しなければならない。なにしろ主君が懇願している。それを振り切って帰国することは無理だ。

 洪浩然は帰国をあきらめた。

 最後の意地として禄を返すことを願い出た。ここに残る以上は禄を受け取らず、静かに余生を送ろうと思ったのだ。

 苦渋の決断というより、死を覚悟することと同じであった。自分の魂は故郷に戻し、肉体だけをこの地にとどめるという気持ちだった。

 一方の勝茂。洪浩然が残ってくれて本望だった。少年の頃から、洪浩然の才能に惚れ込んできた。心の師がそばにいてくれることほど心強いものはない。

 その勝茂が、参勤交代で江戸に行っているときに亡くなったのは1657年のことだった。


■父母に詫びる死

 悲報が佐賀に届いたとき、洪浩然は重大な決意をした。

すでに、いつこの日が来てもいいように身辺整理は終えていた。彼は息子たちを呼びつけると、筆を持って「忍」という字を大きく書き、さらに小さな字を付け加えた。

 忍即心之宝
 不忍身之殃

 これは、「忍ぶことは心の宝であり、忍ばざることは身のわざわい」という意味だ。

 洪浩然は息子たちに言った。

「私は幼い時にここに連れてこられた。とても辛いことだったが、今日まで生きてこられた。なぜそれができたのか。ひたすら耐えてきたからだ。堪え忍ぶことをお前たちも肝に銘じて生きよ」

 洪浩然はしっかりと息子たちに言い聞かせた後、家を出て近くの阿弥陀寺に行った。その寺では先に亡くなった夫人が祀られていた。

 阿弥陀寺で1人座して、洪浩然は父母のこと、そして故郷の山河を思い浮かべた。それから覚悟を決め、腹を切って自害した。

 76歳であった。

 勝茂に懇願されて佐賀に残る決心をした日から、洪浩然は自決する日を待っていた。

 そう考えると、故郷に戻れなかったことを父母に詫びる死であったと思えてくる。

(終わり)


文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』(著者/康熙奉 発行/実業之日本社)
(ロコレ提供)

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