■浅川家の墓
東京から中央本線に乗って甲府を過ぎ、やがて長坂駅に着いた。この駅で降りたのは、浅川伯教と巧という兄弟の資料館を訪ねるためである。
タクシーに乗って行き先を告げると、「資料館に行く前に、通り道だから浅川家の墓を見て行ったらどうか」と運転手さんから勧められた。喜んで誘いに応じた。
「韮崎から長坂までは鉄道もかなりの上り坂で、昔はスイッチバックで上っていったものですよ」
年配の運転手さんはそう言っていた。浅川兄弟の故郷である高根町は標高が700メートル以上だという。高原と言ってもいいほどだ。
車で10分ほど走ると祥雲寺という寺があり、その裏に空き地が広がっていて、そこに「浅川兄弟の生誕の地」と書かれた柱が立っていた。そして、その横に浅川家の墓所があった。
一応は見てまわったが、資料館で浅川兄弟の足跡を調べる前に寄ったので、どうも実感が沸かない。しばらく空き地に立って八ヶ岳の方向を眺めてから資料館に向かった。
■兄弟の業績がわかる資料館
タクシーが横付けしたのは、高根生涯学習センターの前だった。ロッジ風になっている建物で、その中に図書館と浅川伯教・巧兄弟資料館があるという。
中に入ると、右側は開放的な間取りの図書館になっていて、左側に浅川伯教・巧兄弟資料館があった。その立派な造りを見ただけで、地元がいかに浅川兄弟を誇りにしているかがわかる。
資料館に入ると、最初に浅川兄弟の肖像写真が出迎えてくれる。兄の伯教は細面で繊細さを表情に内包していて、弟の巧は骨太で表情に逞しさが満ちている。肖像写真を見るかぎりにおいては、まさに対照的な兄弟と思えるが、この2人が植民地時代の朝鮮半島で果たした役割はともに大きかった。
ゆっくりと資料館の中を見て回る。兄弟の業績がわかるだけでなく、往時の朝鮮半島の暮らしが一目でわかるように、人形などを使って立体的な展示手法が採用されている。
また、兄弟の生涯を描いた映像や、白磁などの陶磁器も用意されていて、内容も盛り沢山だった。
そうした展示を1つずつ見ながら、2人の足跡を振り返ってみた。
■陶磁器に魅せられた兄
兄の伯教は、1884年(明治17年)に現在の高根町で生まれた。山梨県師範学校を卒業したあと、山梨で小学校の教壇に立っていたが、その頃から民芸品や古陶器に興味を持ち、その過程で朝鮮の陶磁器に関心を寄せた。
「朝鮮の地に行けば、きっとすばらしい陶磁器を探せるだろう」
そんな思いが募り、ついに伯教は1913年に日本の植民地だった朝鮮半島へ渡った。幸いに、京城(現在のソウル)で尋常小学校の教師の職を得た。
念願だった朝鮮陶磁器の研究にも拍車がかかる。その中で、彼が最も愛したのは白磁だった。
もともと、伯教は高麗青磁に魅了されていた。しかし、高麗青磁はあまりに高価で、簡単に手に入れることができなかった。
気持ちがふさいでいるとき、たまたま道具屋の前を通り、雑然と置かれた品々の中に、電灯を浴びて白く輝く壺を見つけた。
……その美しさを何に例えたらいいのか。
伯教がその壺を買ったとき、彼の運命も決まった。
その当時、白磁は高麗青磁に比べると評価が低く、手頃な価格で買い求めることができた。
以後、伯教は白磁の蒐集家となり、その研究家として生涯を送ることになった。
■職を辞して研究に没頭
浅川伯教の研究は徹底していて、古い陶磁器を調べるために朝鮮の各地を訪ね歩いた。そうした調査の中で、朝鮮に残る陶磁器の時代的変遷が明らかになっていった。
伯教はさらに研究に打ち込むために、1919年に教職も辞し、ほとんど無報酬の状態になった。
すでに結婚をして一家の主となっていた伯教。家父長として心もとないが、そんな一家を経済的に支えたのが妻のたかよだった。彼女は日本語教師や英語教師をしながら夫を支え、家族の生活を守った。
そんな中で、伯教の研究も核心を突いていく。彼は日本に残る貴重な陶磁器が実は朝鮮伝来のものが多いことを知り、その詳細を明らかにするために日本各地も訪ねた。
結局、伯教が調べた窯跡の数は700を越えた。まだ交通機関が発達していない時代に、地方を巡回する生活がどれほど大変だったか。それを思うと、強い意思を持って朝鮮と日本の各地を回った伯教の熱意に頭が下がる。
伯教は朝鮮半島が日本の植民地支配から解放されたあと、1946年に日本に戻ったが、以後も研究を続け、1964年に80歳で亡くなった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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