■相手に配慮した応対
申維翰は宴席に臨むにあたって、立場上は対馬藩主と対等であることを主張して、藩主に拝礼することを拒否した。
すると、雨森芳洲は「我々をあなどるものである」と強く抗議。それでも、申維翰は納得せず、対立は深刻になった。
結局、対馬藩主が宴席に欠席することで、それ以上の混乱とならなかったが、両者の間では火種がずっとくすぶっていた。
申維翰は、名分と序列を重んじる朱子学を信奉する朝鮮王朝の官僚らしく、格式について徹底的にこだわっている。しかし、その朱子学的な価値観を外交でも通そうとするのは無理があった。
そのあたりは雨森芳洲も十分に承知していたが、江戸幕府の将軍交代の祝賀に来ている朝鮮通信使を怒らせるわけにもいかない。
雨森芳洲は主張すべきところはきちんと主張しながらも、相手に配慮した応対を続けて、朝鮮通信使側の信頼を得ていった。
そんな雨森芳洲が一度、申維翰に抗議の姿勢を見せたことがある。それは、朝鮮半島で発表される書物を読むと、日本のことを「倭(わ)」と蔑称してひどい書き方をしている、ということについてだった。
これに対して申維翰も苦しい弁明をしている。それは、「倭と蔑称している書物は壬辰の乱(文禄・慶長の役のこと)の後に出たものばかりで、まだ怨みが強烈に残っていたからだ」という言い訳だった。
しかし、これは事実と違う。実際、申維翰が著した『海游録』にも「倭」という言い方がひんぱんに出てきていた。
■隣人との付き合い方
雨森芳洲が不快感を示すのも当然だった。江戸幕府と朝鮮王朝は対等な関係で外交を展開しており、一方が上で一方が下ということはありえない。そのことを強く意識していた雨森芳洲は、朝鮮王朝側が礼を失する態度を示せば、それを見逃さずきちんと改善を促している。
そこまで雨森芳洲ができたのは、彼が朝鮮半島の事情を熟知していたからだ。
彼は晩年の著作『交隣提醒』の中で「日本と朝鮮とハ、諸事風義違ひ、嗜好も夫ニ応じ違ひ候故、左様の所ニ、勘弁これ無く日本の風義を以って、朝鮮人へ交り候てハ事ニより喰い違い候事多くこれ有り候」と書いている。
これは「日本と朝鮮は、なにごとも風習が異なっていて、好みも違うから、こうしたことに理解を示さず、日本の風習だけで朝鮮の人たちと交わろうとすると、多くの食い違いが生じてしまう」という意味だ。
以上のことは、朝鮮半島の人たちと長く接してきた雨森芳洲が、自分の体験から身につけた「隣人との信頼に基づく付き合い方」であったことだろう。
前述した『交隣提醒』には、次のような記述もある。
「(朝鮮王朝の)王は庭に何を植えておられるのかと(朝鮮通信使の一行に)尋ねた人がいました。『麦です』という答えを聞くと、『粗末な国ですなあ』と言って笑いました。実際に王は花を植えておられるのでしょうが、(朝鮮通信使の一行は)『農業を大切に思うことが古来から君主の美徳』と思って麦の名を出したのです。そうすれば、日本の人に感じ入っていただけると思った次第ですが、かえって嘲笑を受けてしまいました。なにごとも、(相手を知ろうとする)心得を持つことが大切でしょう」
この文章を読んでいると、雨森芳洲が生涯を通して何を信条にしていたかがよくわかる。彼は「先入観で相手を見ずに、先方の立場に立って相手を見る」ということを繰り返し強調している。
隣国との外交や交流の要諦はまさにここであろう。
■まことの心
雨森芳洲が好きな言葉は「誠信」だった。その意味を彼は『交隣提醒』の中でこう説明している。
「誠信の交わり、と多くの人が言っていますが、その多くは文字の意味をしっかりとわかっていません。誠信というのは『まことの心』であり、互いにあざむかず争わず、真実をもって交わることなのです」
まさに名言だ。雨森芳洲はその人生において「誠信の交わり」を実行し続け、1755年に亡くなった。
生まれ故郷の高月町にある雨森芳洲庵。この記念館は「アジア交流ハウス」としての役割を持っている。外国との交流をもっと広げようとするとき、雨森芳洲の思想と生き方は見習うべき模範になっているのだ。
帰路、そのまま家路につくのが惜しくなって、賤ケ岳(しずがたけ)に寄った。古戦場としても有名な山だが、高月駅のとなりの木ノ本駅から徒歩で30分ちょっとのところにリフト乗り場があり、それを使って頂上まで上がった。
そこからの景観は別世界だった。南側の眼下に琵琶湖があり、北側を見下ろせば小さな余呉湖が一望できた。さらに、東側を望めば、美しい近江の平野と山が見える。雨森芳洲庵があるあたりもはっきりと確認できた。
雨森芳洲もこの賤ケ岳に登ったことがあったかもしれない。自分の故郷を美しく一望できる山頂なのだから……。
もう一度、賤ケ岳から雨森芳洲庵の方向を望む。そのとき感じた心強さはまた格別だった。
「互いにあざむかず争わず、真実をもって交わること」
日本が隣国との交流を考えるとき、そこには常に雨森芳洲という最高の手本がいる。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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