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■最強の国王だった太宗
亡くなるまで国王であり続けることが原則。しかし、27人の国王の中で8人は、それができなかった。
初代王の太祖(テジョ)。彼には8人の息子がいた。第一夫人が産んだ息子が6人、第二夫人が産んだのが2人。それぞれの息子たちが太祖の後継者をめぐって骨肉の争いを起こし、第一夫人側の息子たちが勝利した。最強の実力者は五男の芳遠(パンウォン)。彼は病床にあった父の太祖を隠居に追い込み、兄を1398年に王位に就かせた。それが2代王の定宗(チョンジョン)である。
定宗は名ばかりの王。後ろで糸を引いていたのは弟の芳遠である。彼は1400年に兄の定宗を退位させて、自ら3代王・太宗(テジョン)となった。
最強の実力者が王になったので、王権は徹底的に強化された。朝鮮王朝が518年間も続いたのは、太宗が朝鮮王朝の基盤を磐石に整えたからに他ならない。
その太宗はまだ元気だった1418年に生前退位して息子に王位を譲った。このときに即位したのが「王朝最高の名君」と呼ばれる4代王・世宗(セジョン)である。
■最も悲惨な最期
太宗はなぜ生前に退位したのか。
それは、王朝の基盤を整備する最終仕上げであった。彼には息子が何人もいたが、自分が世を去ったあとに後継者争いが紛糾するのを恐れ、自分が目の黒いうちに世宗を立派な王に育てようとしたのである。その意図は完全な形で実現された。
以上のように、朝鮮王朝の国王は3代までが生前退位となっている。「初代=隠居、2代=引退、3代=譲位」という形だが、すべて太宗が大きな影響力を発揮したのだ。
4人目の生前退位は6代王・端宗(タンジョン)だった。彼は1452年にわずか11歳で即位したが、欲深い叔父に王位を強引に奪われ、1455年に退位させられた。そればかりか、叔父が7代王・世祖(セジョ)として即位すると、その存在を疎まれて、1457年には死罪になってしまった。
朝鮮王朝の歴代王の中で、最も悲惨な最期をとげた端宗。16年の生涯はあまりに短すぎた。
10代王・燕山君(ヨンサングン)は身から出たサビで王位を追われている。あまりにひどい暴政を続けた結果、1506年にクーデターで王宮を追放されたのだ。クーデター軍が押し寄せてきたとき、王を守るべき護衛兵が真っ先に逃げたというから、よほど人望を失っていたのだろう。燕山君は流罪先の島ですぐに息絶えてしまった。
■生前退位の割合はほぼ3割
6人目は、1608年に即位した15代王・光海君(クァンヘグン)である。
彼は巧みな外交戦術や減税政策などで政治的には評価されているのだが、王位争いの過程で兄や弟を死に至らしめている。それがクーデター軍に大義名分を与える結果になった。光海君は1623年に王宮を追放され、最後は流罪先の済州島(チェジュド)で1641年に世を去った。王位を追われた後に18年も生きられた、というのは一体何を暗示しているのだろうか。
時代は下って1907年。26代王・高宗(コジョン)が退位に追い込まれている。すでに朝鮮半島は日本の影響下にあった。高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送って、日本の不当な干渉を世界に訴えようとしたのだが、これが失敗に終わった。その結果、日本の圧力で退位せざるをえなくなった。
代わって王位に就いた27代王・純宗(スンジョン)。国王とはいっても、すでに権限は限定的だった。
1910年、日韓併合によって朝鮮王朝は滅亡し、純宗も国王ではなくなってしまった。歴史的には「朝鮮王朝最後の国王」として記録されることになった。
このように、朝鮮王朝で亡くなるまで国王の座に留まっていられなかったのは、27人の中で8人だった。その割合はほぼ3割。つまり、理由は様々でも、朝鮮王朝国王の生前退位はごく普通に起こりえたことだったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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