余大男を日本に連れ去ったのは加藤清正だった。写真は熊本市にある清正の銅像(写真提供:ロコレ)
余大男を日本に連れ去ったのは加藤清正だった。写真は熊本市にある清正の銅像(写真提供:ロコレ)
豊臣軍による朝鮮出兵の際、13歳の余大男(ヨ・デナム)は加藤清正の軍につかまり、日本に連れてこられた。利発だった彼は僧侶としての修行を積み、1609年に29歳の若さで本妙寺(ほんみょうじ)の住職になった。1620年、余大男に驚くべき手紙が届いた。すでに亡くなっていると思っていた父からのものだった。


■なぜお前は帰ってこないのか

 父の余天甲(ヨ・チョンガプ)からの手紙は以下のような内容だった。

「おまえは戦乱の中で死んでしまったものだと思い込み、母と一緒にずっと号泣していた。ところが、わが国の通信使が日本に行って帰ってきてから、お前の消息を教えてくれた。本当にうれしくて母と一緒に喜び合った。ただ、捕虜になった人たちがどんどん国に戻ってきているのに、なぜお前は帰ってこないのか。おそらく、父母が生きていることを知らなかったからだろう。私たちはもう年老いた。すぐに帰ってきてくれ」

 父の愛情あふれる手紙を読み、余大男の望郷の念は一層高まった。彼は「感涙にむせぶばかりです」という心情を綴った返書を出した。

「捕らえられてからずっと、何の罪があって異国に置き去りにされなければならないのかと嘆くばかりでした。すぐにでも父母様の元に駆けつけて心情を吐露できれば、死んでも後悔はありません。ただ、帰国するには上の人の許可を得なければなりません。泣いて陳情しますので、帰国できる日までしばしお待ちください」

 こういった内容を文面に記し、余大男は故郷に未だ戻っていないことを父母に詫びた。さらに、彼は「この国には心の通じあう友人がおりません」と手紙に書いている。この一文をもって、余大男がいかに異国で孤独な日々を送っていたかが察せられる。それだけに、父からの手紙には本当に感激したことだろう。


■軟禁状態に近い処遇

 清正の死後、肥後の国を治めていたのは清正の息子の加藤忠広であった。彼は幼くして家督を継いだが、思慮に欠ける人物だった。それが、余大男にとっての不運。帰国願いが当然受理されると思っていたのに、加藤忠広は親子の情がわからず、余大男の帰国を許さなかった。そればかりか、手紙のやりとりも禁じる有様だった。

 余大男の嘆きは大きかった。彼は暗澹たる日々を過ごす中で、なんとか父母に連絡をしようと試みた。

 また、父母が息子にあてた手紙の中のわずかばかりが余大男に届くこともあった。細い糸をお互いにたぐりよせるように、親子の細々とした言葉の交換が続いた。

 父はこう書いてきた。

「領主に懇願しなさい。年をとった両親には一人息子の私だけしかいない、と。心を尽くしてお願いすれば、人の心が動かぬはずはないであろう」

 しかし、息子は1625年に送った手紙にこう書くしかなかった。

「領主には重ねて陳情しているのですが、気分を害しているのか、なんの決断もしてもらえないままに月日が流れています。今は、領主の兵たちに監視されて、まるで籠の中の鳥のようです。この手紙すらも、私が親しくしている人に頼んでこっそり出さなくてはならないのです」

 さらに、手紙の中で余大男は、「どうして私一人だけに、行ったきり帰ってきてはならぬと天が命じたりするでしょうか」と、一縷の望みを決して捨てないという強い意思を示した。

 しかし、その切実な思いも、人情の機微を知らぬ加藤忠広には届かなかった。

 そればかりか、余大男はますます加藤忠広から疎まれ、軟禁状態に近い処遇を受ける始末だった。


■あれほど帰郷を願ったが……

 1632年、肥後の藩主だった加藤家は徳川幕府から改易させられた。家臣団をまとめきれなかった加藤忠広は何かと問題を起こしていたが、やはり豊臣恩顧の大名であったことが徳川幕府から嫌われた最も大きな理由だったかもしれない。肥後の藩主は加藤家から細川家に変わった。

 新しい藩主は細川忠利だった。藩政も大いに変わり、余大男は「これで帰国できるのではないか」と望みを持った。

 しかし、結果は逆だった。余大男は元藩主である清正の側近として警戒され、むしろ加藤家の時代より冷遇されるようになった。当然ながら、帰郷も許されなかった。

 身を切られるような辛さの中で、余大男も帰国をあきらめざるをえなくなった。以後は、父母の安寧を祈って仏道に精進し、領地の人々の尊敬を受けた。そして、両親が亡くなったあとは、日々の祭祀を欠かさなかった。

 1665年、余大男は79歳で世を去った。朝鮮半島から日本に連れてこられてから60余年が経っていた。

 かつて余大男は父への手紙でこう書いている。

「もし泰平の世に私が一人で逃亡し、父母や友を捨て、見知らぬ土地で暮らしていたなら、私の親不孝の罪は極刑に当たるでしょう。けれど、伏してお願い申し上げます。やむをえない事情があったとお察しくださり、恩恵に背いたという非難を広めないでくださいませ」

 韓国の学者の推定によると、文禄・慶長の役で日本に連れてこられた捕虜は5万人にのぼるという。和平が成立したあとに、多くの者は故郷に帰ることができたが、為政者に恵まれない人は帰国が許されず、異国で生涯を終わらざるをえなかった。余大男はその典型的な一人である。

 余大男はどんなに故郷に帰りたかったことか。日本列島と朝鮮半島の間は、今なら船でも3時間(博多港と釜山港を結ぶ高速船)の距離だが、江戸時代の初期にはまるで地球の裏側に至るように遠かった。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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