■親のために死を選ぶ覚悟
1515年、ホは、11代王・中宗(チュンジョン)と二番目の正室である章敬(チャンギョン)王后の間に生まれた。しかし、章敬王后が出産から6日後に亡くなってしまったため、彼は三番目の正室である文定(ムンジョン)王后に育てられた。
その文定王后が、1534年に息子の慶源大君(キョンウォンデグン)を産んだ。彼女は「自分の子を王にしたい」と思ったが、前妻の子で世子(セジャ)に指名されていたホがいたため、それは難しかった。それでも文定王后は諦めず、世子を亡き者にしようとして、峼が妻と休んでいた宮殿に火を放った。
異常な熱気を感じたホは、火事に気付いて妻に先に逃げるように言うと、宮殿の中で座った。その火事が文定王后の起こしたものだと見抜いていた彼は、自分の死を望む親のためにと、自ら死を選んだ。
ホの妻は、そんな夫の行動に驚きを隠せなかった。さらに、妻は「夫を見捨てて逃げるわけにはいかない」と思い、一緒に宮殿の中に残った。しかし、夫婦は宮殿が崩れ落ちる前に助け出されたため、文定王后の策は失敗に終わる。
■仁宗として即位したホ
1544年、ホは病気になった父親の中宗を必死に看病するが、その甲斐もなく中宗は世を去ってしまう。父親の死を深く悲しんだ峼は、それから5日間は飲み物を飲まなかった。それが噂として広まると、人々は彼をとても親孝行な息子だと讃えた。
その一方で、側近たちは「このままでは、いつか倒れてしまう」と心配した。実際に少しずつ体調を崩していったホは、12代王・仁宗として即位しても、体調が悪いままだった。
その原因が看病疲れであることは、誰の目から見ても明らかだった。それでも、仁宗は父親の死は自分の責任だと、自らを責め続けた。周りの者たちは王の心配をしていた。
しかし、自分の息子を王にすることだけを考えていた文定王后は、仁宗に対して冷たい態度を取った。最初の火事で仁宗の殺害に失敗していた彼女は、王を毒殺することを考えていたと思われる。
朝鮮王朝27人の王の中には、毒殺された可能性のある王が何人かいるが、仁宗もその1人である。彼が亡くなったときの出来事を見てみよう。
■仁宗毒殺疑惑
1545年、仁宗は、文定王后から祭祀(チェサ)の後に自分のところに来るように言われる。それに応じた彼を、体調のことを心配した臣下たちが止めようとするが、仁宗は息子としてどうしても行かなければならないと思っていた。
祭祀が終わると仁宗は、文定王后のもとを訪ねた。いつもは冷たく接してきた彼女は、この日だけは上機嫌だった。文定王后に餅を勧められた仁宗は、それを喜んで食べた。それからしばらくして、彼の病状が悪化した。もともと体調が悪かったが、さらに下痢や高熱を発症するようになったのだ。そのあまりの苦しさに仁宗は気を失ってしまう。
一刻を争う容態となった王を、医官たちは静かな場所へと移した。そのおかげもあって、仁宗は意識を取り戻して、医官たちは安堵(あんど)の表情を浮かべた。
しかし、文定王后が突然、自分の娘であるウィヘ王女の家で、王の容態を見守りたいと言い出したのだ。
これには重臣たちから多くの反対意見が出た。どんな理由があろうとも、王妃が王宮の外に出ることはできないからだ。もちろん、文定王后も例外ではない。しかも、仁宗が危険状態だというのに外出しようとするなど、絶対にありえないことなのだ。
それでも、文定王后は簡単には引き下がらない。彼女が何度も外出したいと言ったことにより、王宮は大変な混乱となった。
1545年7月、仁宗は在位わずか8か月で世を去った。彼には後継ぎとなる息子がいなかったため、文定王后の息子の慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。当時まだ幼かった彼に代わって母親の文定王后が代理で政治を行ない、彼女は権力を思うままにした。
その後、仁宗の葬儀が行なわれた。本来なら王の葬儀なのだから、立派に行なうのが普通なのだが、文定王后は彼の葬儀を王のものとは思えないほど冷遇した。その理由として文定王后は、1年も王の座にいなかったから慣例通りに行なうわけにはいかないと言った。
親孝行のためなら自分の命まで捨てる覚悟を示した仁宗。しかし、そんな彼の思いは、最後まで文定王后に届くことはなかった。
文=康 大地【コウ ダイチ】
(ロコレ提供)
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