■嫉妬深い性格
尹氏は当初は側室だったが、1474年に成宗の最初の正室である恭恵(コンヘ)王后が18歳で早世したことにより、二番目の正室として迎えられた。しかし、彼女は、育ちの貧しさと野心的なことを理由に、成宗の母親の仁粋(インス)大妃から嫌われていた。
さらに、仁粋大妃は「恭恵王后が亡くなったのは尹氏のせいだ」と思いこんでいて、彼女のことをとても憎んでいた。それには次のような理由がある。
仁粋大妃は、恭恵王后をとても可愛がっていたが、成宗は美貌の持ち主である尹氏だけを寵愛した。それが原因で、恭恵王后は精神を病んでしまったのだ。まさに仁粋大妃と尹氏の仲は最悪だった。
王妃となった尹氏は、1476年に成宗との間に生まれた息子は、成宗の後継者として世子(セジャ)に指名された。すると、彼女の嫉妬深い性格が表に出てきて、側室に強い警戒心を抱くようになった。その一方で、成宗は、側室の厳(オム)氏と鄭(チョン)氏のところへ通うようになってしまい、王妃のもとを訪れなくなった。
側室の2人は尹氏のことを嫌っていて、彼女の悪口を成宗の母親である仁粋大妃に言った。ここに王をめぐる女同士の争いが勃発した。
■尹氏が犯した失態
1477年、実の母親の力を借りた尹氏は、「厳氏と鄭氏が自分と息子を殺害しようとしている」というあらぬ噂を立てた。それが宮中に広まって大騒ぎとなったが、結局は、厳氏と鄭氏を陥れるための策略であることがばれてしまう。
さらに尹氏の部屋からは、毒殺によく使われる砒素(ひそ)と呪詛(じゅそ)の本が見つかった。それにより、尹氏は成宗から信用を失った。呪詛を行なうことは大罪とされていたため、成宗は尹氏を王妃から庶民に格下げしようするが、臣下たちから猛烈に反対を受けた。今までにそういう前例がなかったからだ。結果的に尹氏は不問となったが、彼女の母親は王宮への出入りを禁じられた。
しばらく時間が経ち、成宗は尹氏のことを気に掛けるようになり、彼女のもとを久し振りに訪れた。しかし、王はまだ厳氏と鄭氏のもとへ通っていた。そのことを知っていた彼女は成宗の顔を引っ掻いてしまう。尹氏からしてみれば、成宗との仲を戻すための絶好の機会だったのだが……。
王の顔に傷をつけるという罪を犯した尹氏は、そのことに激怒した仁粋大妃によって王宮を追い出されて、1479年に廃妃となった。
■仁粋大妃の策略
実家に戻った尹氏は、自分が犯した罪を深く反省して質素に暮らしていた。彼女が王宮を追い出されてから3年後の1482年、成宗は「尹氏が反省しているようなら王宮に戻してあげよう」と思い、宮中でも尹氏に同情する者たちが出始めた。こうして、尹氏が王宮に戻れる可能性が出てきた。
成宗の命令を受けて、尹氏のもとを訪れた使者は、彼女がしっかりと反省して謹慎生活を送っているのを確認した。使者は、そのとおりに報告しようと思ったが、成宗のもとへ戻る途中で仁粋大妃に呼び止められて、こう言われた。
「尹氏はまったく反省しておらず。傲慢な暮らしをしていたと報告しろ」
仁粋大妃にそのように脅された使者のもとに、尹氏と敵対していた側室の厳氏と鄭氏が現れて、使者を金銀で買収した。実際には尹氏がしっかりと反省している様子を見た使者なのだが、成宗にありもしない事実を報告してしまう。それを聞いた成宗は当然のように激怒して、尹氏を死罪にした。
■燕山君が起こした大事件
尹氏が廃妃として死罪になったことは、世子にも影響を及ぼした。高官たちは「廃妃の息子を次の王にしてはいけません」と反対意見を出した。しかし、成宗は息子が長男であることを重視したため、世子が1494年に10代王・燕山君となった。彼は母親が死罪になったことを知らないまま育っていた。なぜなら、父親の成宗が「尹氏の死について言ってはならない」と宮中で口止めしていたからだ。
それにもかかわらず、出世を望んでいた奸臣が燕山君にすべて話してしまう。本当のことを知った彼は激怒し、母親の死に関わった者たちを次々に殺害していった。もちろん、その中には成宗の側室だった厳氏と鄭氏もいた。
そんな虐殺事件を起こして母の仇を討った彼は、庶民に落とされた尹氏の身分を回復し、立派なお墓を用意した。
しかし、1506年は燕山君がクーデターで王宮を追われて江華島(カンファド)に流された。彼が30歳で世を去ると、尹氏の身分は再び庶民となり、お墓も粗末なものになってしまった。
尹氏の人生は惨めなものではあったが、その原因となったのは彼女の嫉妬心である。自業自得と言わざるを得ないかもしれない。
文=康 大地【コウ ダイチ】
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