■高句麗の滅亡
7世紀の朝鮮半島。長く三国(新羅〔シルラ〕、百済〔ペクチェ〕、高句麗)が覇権を争っていたが、新羅は中国大陸の唐と連合して、660年に百済を滅ぼした。
矛先は次に高句麗に向けられ、新羅と唐は高句麗を挟み打ちにしようとしていた。
危機を感じた高句麗は、かねてより交流がある日本に援軍を依頼にきた。
しかし、朝廷は応じなかった。
それも仕方がないことである。
日本の水軍が、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗していたからだ。
高句麗を助けるどころか、新羅・唐の連合軍が日本に攻めて来るのではないかとビクビクしていたのだ。高句麗の外交使節につれない返事をしたのも無理はなかった。
結局、新羅・唐の連合軍によって高句麗は668年に滅ぼされた。たとえ日本が援軍を送ったとしても結果は同じだっただろう。形勢を逆転することはできなかったはずだ。
■急務だった東国の開発
日本に留まっていた高句麗の外交使節は、母国が滅んで帰るところがなくなった。朝廷も気の毒に思い、日本で丁重に扱った。そうした待遇を受けた1人が、高句麗の王族の若光(じゃっこう)である。
彼はとても優秀な若者だった。朝廷内で重用されて、大いに出世した。
703年に従五位下の官位を受け、「王(こしき)」の姓(かばね)も賜った。
これは、大変な名誉であった。というのは、「王」の姓は外国の王族出身者に授けられるものだからである。若光は高句麗の王族の一人として、朝廷内でも重職を担った。
当時、朝廷が重視していたのが東国の開発だった。
その頃は関東ですら未開の僻地。すみやかに開発に着手する必要性を朝廷は痛切に感じていた。
そのときに指名されたのが若光だった。彼は、高句麗滅亡後に難民として日本にやってきた人々とその子孫を率いて、東国に向かった。
■「高麗」は何を指すのか
本州の太平洋側の沿岸を船で東に進んだ若光の一団。伊豆半島をグルリと回り、相模湾に入ってから、上陸の適地を見つけた。
それが、相模国の大磯だった。
若光は大磯に住み、ここを拠点にして配下の者たちが相模国の各地に散っていった。
そういう歴史があるだけに、大磯には高句麗にゆかりがある地名が多い。
それを説明する前に、日本の古代において高句麗のことが高麗(こま)と呼ばれていたことを強調しておきたい。
朝鮮半島の歴史上では高麗という王朝が918年から1392年まで続いたが、それとは関係がなく、日本の古代で高麗と言えば、すべて高句麗のことなのである。
さらに言えば、日本で馬のことを駒と呼ぶが、これも高麗が由来だ。つまり、「駒(こま)」は「高麗(こま)」から転じたものなのだ。高句麗は騎馬国家でもあり、「高麗」が馬に通じるのも道理である。それゆえに、日本で「駒」が付く地名は、古くから高句麗と関係がある場合も多いのだ。
そのことを理解したうえで、次の話に移っていこう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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