■大磯に上陸した若光
明治維新後に新政府が実施した神仏分離政策(王政復古・祭政一致のために、仏寺・仏像の破壊を進めた政策)によって、高麗寺も高麗神社に変えさせられ、さらに名称が高来神社になった。しかし、本来は若光(じゃっこう)にゆかりがある高句麗系の寺であったことは間違いない。
なお、高来神社の裏にある標高168メートルの山は、今でも高麗山(こまやま)と呼ばれる。さすがに山は政治と関係ないので、名称変更を免れたのである。
さらに、高来神社の南側には、今も「高麗」という地名がある。その近くにあるのも唐ケ原で、異国を連想させる地名だ。しかも、東に花水川が流れており、この川が相模湾の海岸に注いでいる。
推定すれば、花水川の河口に若光が上陸したのではないか。水があるところに住もうとするのは必然である。
その周辺に若光が定住した証として、今も高句麗にゆかりがある名称が神社や山や居住地に残っているのである。
■相模国の開発は成功
かつて、若光が率いた一団は、東国開拓の目的を遂行するために、相模国の各地に移り住んだ。
「大磯町史」(編集発行は大磯町)によると、朝鮮半島にゆかりのある神社が神奈川県には多いという。
小田原市の白髭神社、平塚市の駒形神社、秦野市の加羅古神社、箱根町の三つの駒形神社、伊勢原市の白髭神社、鎌倉市の駒形神社、横須賀市の白髭神社、三浦市の白髭神社などだ。
こうした地名を見ていると、ほぼ神奈川県の全域に及んでいる。それほど若光の一団の活動範囲は広かったということなのだろうか。
幸いに、若光の一団による相模国の開発は大成功だったようだ。朝廷は若光の手腕を高く評価して、新たな使命を与えた。それが武蔵国(現在の東京都と埼玉県)における高麗郡の創設である。
当時の行政区域の中で、「郡」は「国」に次ぐ大きな単位である。しかも、高麗の名をつけた郡を武蔵国に新設するくらいだから、よほど高句麗系の渡来人を頼りにしていたのだろう。
■若光の墓
716年、高麗郡の新設によって、それまで駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)に住んでいた高句麗人1799人が高麗郡に移住した。この事実は『続日本紀』にも載っている。
この高麗郡の長官になったのが、大磯から移ってきた若光だった。
すでに来日してから50年の歳月が過ぎていた。相当な高齢になっていたはずだ。それでも若光は率先して、高麗郡の開発に従事したことだろう。
現在、日高市にある聖天寺には、山門の少し右に「高麗王廟」があるが、これは若光の墓だと伝えられている。高さ2・3メートルの石塔であり、砂岩を5個重ねた構成になっている。
そもそも、聖天院は若光の菩提寺として751年に創建されたものである。この寺は、江戸時代に高麗郡の本寺として栄え、「院主の格式は諸公に準ずる」と称されたほどだった。
さらに、聖天院から北に500メートルほど進むと高麗神社がある。ここは若光を祀る神社で、若光の子孫が宮司を代々務めている。
このように、今の日高市には、若光の遺徳を偲ぶことができる場所が多いのである。
■関東の武士の先祖は?
高麗郡そのものは、1896年に入間郡と合併になって、その郡名がすっかり消えてしまった。
ただし、高麗村と高麗川村という二つの村があったのだが、1955年に合併して日高町になり、1991年に日高市に移行した。
ただし、高麗川、JR「高麗川」駅、西武鉄道「高麗」駅のように、川や駅にまだ高麗の名が残っている。
さらに、気になることがある。
高麗郡が創設されて1799人の高句麗人が移住してきたが、その末裔たちはどうなったのだろうか。
高麗郡の創設から300年以上が過ぎると、馬の扱いに慣れた武士が関東に多く現れるようになった。彼らの先祖を辿っていけば、おそらく若光の一団に行き着くのではないだろうか。
そんなふうに想像してみると、若光の影響力が関東に強く残ったことがうかがえる。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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