■日蓮宗の内紛
やがて日延は日蓮宗内の対立に巻き込まれる。江戸時代の初期、日蓮宗では不受不施派と受不施派の争いがずっと続いていた。1630年2月21日には幕府の重臣たちが、両派の論争を聴取している。
そもそも、不受不施派と受不施派とは何か。
この場合の不受とは、他の宗派からの布施供養を拒否することであり、不施とは日蓮宗が他の寺や僧に布施供養をしてはならないということである。
日蓮宗では、他宗は邪教と見なしており、その邪教から布施供養を受けてはならないという決まりがあった。
この不受不施の宗制は、長く日蓮宗で守られていたのだが、1595年に秀吉が方広寺で大仏供養をしたときに問題になった。日蓮宗の僧侶たちは供養を命じられたが、宗制を守ってそれに応じなかったのである。
その一方で、日蓮宗の中には権力者の意に沿って供養に応じた人たちもいた。それが受不施派であり、反対の立場の不受不施派との対立は深刻になっていった。
江戸時代になり、2代将軍秀忠の正室が亡くなったときに受不施派が供養したため、不受不施派がこれを非難。逆に、受不施派が幕府に対して訴えを起こすに至った。こうして、1630年2月21日に幕府の重臣たちが列席するなかで、不受不施派と受不施派の対論が行なわれたのである。
■追放された日延
幕府の重臣たちは、3代将軍家光に対して対論の一部始終を報告。家光は受不施派を支持する結論を下した。
敗れた不受不施派の中心人物たちは配流されることになった。
いわば、追放の刑である。対馬という遠島に流された人もおり、この結果をもって日蓮宗内の対立が終わった。
この対論が行なわれた当時、誕生寺の貫首は18世の日延だった。日延はこの対論に列席してはいなかったが、不受不施派を支持する有力な1人であった。彼は、自ら他の不受不施派の人たちと同じように罰を受けることを願い出て、結果的に追放されている。そういう意味では自分の信念を曲げない人物だった。
その後の日延は、博多の法性寺に預けられた。
この法性寺は、かつて日延が日本に来たときに出家得度した寺であり、彼は16歳で京都に行くまでここで修行していた。
とても因縁のある場所なのである。
■日本での生活は72年間
日延はやがて秋月本証寺に配流されるが、現実的には法性寺を中心にして蟄居生活を送ったようだ。その中でも、彼はいくつかの寺を開き、布教に努めた。
一方、父を配流して殺害した朝鮮王朝15代王の光海君は1623年にクーデターで王宮を追われ、最後は配流先の済州島(チェジュド)で1641年に亡くなっている。その一報を日延も聞いていたことだろう。
そのとき、自らの経で亡き父に報告したのだろうか。
以後も日延は日本で布教に専念し、1665年に77歳で世を去った。
1593年に日本に連れてこられてから、亡くなるまでの72年間、一度も故国に戻れなかった。とはいえ、4歳で日本に来ているので、故国の記憶はほんのわずかにあるだけだったかもしれないが……。
それでも、朝鮮半島に最も近い博多で長く住んだことは、少しでも慰めになったのではないだろうか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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