■張禧嬪という人物
粛宗と張禧嬪が出会ったのは1680年である。彼女は、親戚が通訳官だったため、女官として宮中に出入りしていた。張禧嬪はかなりの美貌の持ち主で、粛宗も一目惚れするほどだ。しかし、「この女は、息子にとって危険な存在だ」と感じていた粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后によって、張禧嬪は王宮を追い出されてしまう。
彼女を寵愛していた粛宗は、母に「張禧嬪を王宮に戻してほしい」と頼み込むが、明聖王后はそれを許可しなかった。
一方、貧しい生活を送ることになった張禧嬪だが、明聖王后が1683年に亡くなると、粛宗の正室である仁顕(イニョン)王后によって王宮に戻ることができた。彼女は、王が気に入っている女官を近くにいさせてあげたいと思ったのだ。しかし、張禧嬪は仁顕王后に感謝するどころか、王の寵愛を受けていることを理由に、わがままに振る舞うようになった。
仁顕王后は自分の行なったことを後悔した。彼女は張禧嬪を呼び出して、ふくらはぎをムチで叩いた。明聖王后が張禧嬪を追い出した理由を悟った仁顕王后だが、その後、彼女の立場が不利になる出来事が起きてしまう。
1688年、張禧嬪が息子のユンを産んだのだ。初めての息子の誕生を喜んだ粛宗は、生まれたばかりのユンを世子(セジャ)候補として元子(ウォンジャ)に指名しようとした。
■王妃となった張禧嬪
1689年、張禧嬪からの度重なる催促を受けていた粛宗は、高官たちを集めてユンを元子にすると言った。それに対して高官たちは反対意見を述べた。なぜなら、正妻の仁顕王后は21歳と若く、まだ息子を産む可能性が十分にあるからだ。
しかし、粛宗は「すでに決めたことだ」と反対意見をすべて無視した。さらに、彼は嫉妬深いという理由から仁顕王后を廃妃にすると、張禧嬪を新たな王妃として迎えた。
ついに王妃の座を手に入れた張禧嬪。彼女の息子であるユンも王の後継者となった。もはや張禧嬪に不可能はなかったが、この後、彼女は転落人生を歩むことになる。
その原因が、ドラマ『トンイ』の主人公となった淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏の登場である。すでに張禧嬪への愛を失っていた粛宗は、下働きで水汲みをしていた彼女に心を奪われた。さらに、粛宗が1694年に仁顕王后を王妃に戻したことで、張禧嬪の没落が決定した。しかも、淑嬪・崔氏が後の21代王・英祖(ヨンジョ)となる息子を産んだので、世子であるユンの立場も危うくなった。
■重い罪を犯した張禧嬪
張禧嬪は、没落したままで終わるような女性ではなかった。彼女は、仁顕王后に呪いをかけようと呪詛(じゅそ)を行ない、神堂を建てて怪しげな者たちと一緒に祈祷を続けた。王妃に復帰した仁顕王后は病弱で1701年に世を去ったが、その原因が呪詛による呪いなのかはわからない。
その後、淑嬪・崔氏は「張禧嬪が呪詛を行なっていた」と粛宗に話す。その報告を受けた粛宗は激怒して、張禧嬪に死罪を言い渡す。高官たちがどんなに反対しても、王は張禧嬪の死罪を取り消さなかった。
張禧嬪は、死ぬ前に息子に会いたいと願い出た。王である粛宗は、親子の対面を許したが、張禧嬪は何を思ったのかユンの下腹部をおもいっきり握って、涙の別れを予想していた人たちを驚かせた。ユンはあまりの痛さに気を失ってしまう。そして、張禧嬪は42歳で世を去った。
それから19年後の1720年に粛宗が世を去ったことで、張禧嬪の息子のユンが20代王・景宗(キョンジョン)となるが、彼には子供がいなかった。実際の原因はわかっていないが、張禧嬪に下腹部を強く握られたからではないかと言われている。
文=康 大地【コウ・ダイチ】
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