■由緒正しき王制
紀元前から紀元後にかけての朝鮮半島は、各地で部族国家が狭い領土を確保しながら競いあっていた。そのころは稲作や鉄器の製造が各地に広まった時期であり、いち早く食料を確保して武器を備えた部族が力を伸ばしていった。その1つが、慶州とその周辺を領土とする部族国家の斯盧(サロ)だった。
この国は、やがて水利事業で大きな成果を見せて、国土を今の慶尚(キョンサン)北道まで広げ、徐々に中央集権国家としての体制を整えていった。
当時は、朝鮮半島北部に高句麗(コグリョ)、西南部に百済(ペクチェ)が誕生しており、新羅は三国の中では中央集権国家の制度作りが最も遅れていた。とはいえ、神話が混在した記録によると、新羅もそれなりに由緒正しき王制を持っていた。
■中央集権的な国家に変貌
もともと、新羅という国は、紀元前57年に朴赫居世(パク・ヒョッコセ)が王位に就いたときから始まるとされている。
当初は朴氏が王位を守り、その後は昔(ソク)氏が王位継承の仲間入りをして、さらに金(キム)氏も加わった。
つまり、初期の新羅は朴、昔、金という三氏によって国が運営されたのである。
最後は、金氏の力が強大となり、王位は金氏によって独占されるようになった。
そして、356年には奈勿王(ネムルワン)が即位し、それまでの土着的な要素が強い国家が中央集権的な国家に変貌を遂げて新羅となった。
一方、朝鮮半島最南部で新羅と百済に挟まれた地域を領土としていたのが伽耶(カヤ)であった。
しかし、562年に新羅はこの伽耶を吸収してさらに領土を拡張した。
当時、朝鮮半島中部の大河であった漢江(ハンガン)の流域は、その支配をめぐって高句麗と百済が争っていたが、ここに新羅も進出し、三国による覇権争いが非常に激しくなった。
■不倶戴天の敵
ドラマ『太王四神記』でも描かれた広開土大王(クァンゲトデワン)の時代から巨大な国家を築いていた高句麗。その南下政策を防ぐという目的は、百済と新羅が共有できるものだった。
そこで、百済と新羅は同盟を結び、551年には百済の聖王(ソンワン)と新羅の真興王(チンフンワン)はともに協力して高句麗を駆逐し、漢江地域を占有することに成功した。
しかし、共通の敵である高句麗がいなくなった時点で、百済と新羅の同盟関係は崩れた。何よりも、新羅は領土的野心をもって漢江地域の独占をもくろみ、当然ながら百済が反発した。
ここに、両国の紛争が勃発した。
敵対するようになった百済の聖王と新羅の真興王。結果は新羅に軍配があがった。そして、捕虜となった聖王は斬首されるという惨めな最期となった。
その憎しみから、百済は新羅を不倶戴天の敵とみなすようになり、以後は両国の間で激しい戦いが続いた。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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