■一枚岩になれなかった高句麗
高句麗にとって致命傷だったのは、後継者が育っていなかったこと。淵蓋蘇文の能力はあまりにも抜きんでていたが、彼のおかした唯一の失敗は、後を継げる人材を見つけられなかったことであった。
偉大なる指導者を失った後の高句麗は、一枚岩になれなかった。実際、淵蓋蘇文の息子たちの間で莫離支の座を巡る内紛が起こり、戦意を失って亡命する者まで出始める始末だった。
多くの戦いを勝ち続けた高句麗だが、それは英雄の下で一致団結した結果であり、まとまりを欠いた時点で国の行く末は決まっていた。
668年、新羅・唐連合軍の前に宝蔵王は降伏。淵蓋蘇文が死んでわずか2年で高句麗は滅亡した。
共通の敵を倒した連合軍だが、唐が高句麗や百済の領地を支配下に置こうとしたために、両者の仲は険悪になった。
その中で、新羅は高句麗や百済の遺民たちをうまく取り込んで力を強め、なんとか唐を朝鮮半島から追い出して、朝鮮半島初の統一国家となった。
■新たな英雄「大祚栄」
宝蔵王や淵蓋蘇文の息子たちは、その後は一体どうなったであろうか。
実は、唐に連行されて、形だけの役職を与えられた。
また、唐は高句麗の要人たちの中から従順な人物を選抜し、その者たちを官職に就けた。こうすることで唐は、高句麗を再興しようとする気概を奪ったのだ。
在位中も力をふるえず、高句麗滅亡後に他国に囚われてそこで一生を終えた宝蔵王。まさに悲劇の王と言える。
結局、高句麗が滅亡した後、多くの民は唐へ強制的に連れて行かれた。しかし、旧高句麗の地に残された人たちは唐への抵抗運動を続けた。このことに危機感を感じた唐は、旧高句麗の地に住む人たちをバラバラに地方へと移住させた。その中には、高句麗の将軍だった大祚栄(テジョヨン)の姿もあった。
大祚栄は旧高句麗の民たちを率いてはるか東の地へと移動すると、698年にそこで新たな国を興した。
大祚栄自らが高王(コワン)と名乗ったその国が震(チン)である。
■海東の盛国
大祚栄が初代王となった震は、建国当時から高句麗の後継国を自認していた。それほど高句麗への愛情が深かったのである。
高王の出生には多くの伝説が残されている。
高王の母は彼を妊娠時に北斗七星が輝く夢を見たし、出産のときには部屋から溢れんばかりの光が放たれたという。
それだけに、当時の領民から高王は、神秘の力に守られた人間だと思われた。
そんな高王は在位中に国力の増加に力を注ぎ、領土を拡大していった。
唐は、震の力が大きくなると和睦の道を選び、高王に渤海(パレ)郡の王という職を進呈した。
それを好意的に受けた震は国の名前を渤海に変えて、過去のわだかまりを捨てて、唐と友好的な関係を築いていった。
渤海は200年以上、「海東の盛国」と呼ばれるほどの繁栄を遂げた。高句麗の魂はしっかりと渤海に受け継がれたのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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