国籍が一度変わっただけで、彼らはこれほど涙にむせびます。だとしたら我々は国籍が何回変わったのか?いくつの国旗がはためいたのか?
奇遇な運命であったが偉大な人生を歩んだ我ら
一九四〇年、皇国臣民として生まれた我らは我が国の童謡よりも先に日本の軍歌を学び育ちました。
最初の旗(訳者注:日の丸):真珠湾攻撃ではじまった太平洋戦争。原子爆弾による一九四五年日本の敗戦。感激の万歳を叫んだのも束の間日本軍の武装解除の名目で北はソ連軍が、南はアメリカ軍が進駐して来ます。アメリカの軍政庁学務局で作られた教科書で学校生活をはじめます。
二番目の旗(訳者注:太極旗):一九四八年八月十五日大韓民国政府樹立とともに本来の祖国の旗!
三番目の旗(訳者注:人民共和国の旗):しかし、その時北にいた人々と六・二五で避難できなかった人々はそれぞれ別の旗を見ます。
四番目の旗(訳者注:星条旗):北の南進によってはじまった朝鮮戦争。やっと樹立した国は戦場と化し我々は避難学校に集いました。仁川上陸作戦(訳者注:アメリカ軍による作戦)と諸外国の助けにより国は守られましたが、戦争で全国土が廃墟となり北緯三十八度線は休戦ラインに変わり分断は継続します。
戦争後、外国からの援助がなければ、食べることさえままならなかった時代、混乱と不正腐敗で国は病にむしばまれていきました。一九六〇年四月十九日、我々は立ち上がり、崔正圭をなくしました。国民が政府を倒し第一共和国は終止符を打ちました。続いて、出現した第二共和国、軍事革命(クーデターとも)にはじまり政治は激動の時代を送ります。
このとき我々ははじめて社会に第一歩を踏み出します。これといった働き口があったわけでもなく会社とはいえないところで一日を二十五時間のように一週間を八日のように働き続けました。月、火、水、木、金、金、金。
家族と休暇を過ごしたことがあったでしょうか。
また一部の人は、祖国を後にして遠い外国に糧を求めて出稼ぎに行きました。言葉も通じない異国の地で、差別と家族への思いでどんなに涙を流したことか。
今、我々七十代が祖国の歴史の前で褒められることがあるとすれば、その絶望の状況の中で決して諦めず歯を食いしばり生きて来たことではないでしょうか。
ドイツに行った鉱夫は炭鉱の中で、看護師はありとあらゆる雑務をこなし必死に働きました。
ベトナム戦争派兵の代償は犠牲もありましたが、韓国経済に貢献し、中東の砂漠で流した汗はドルとして返ってきました。何かをやってみようとはじめた「セマウル運動」(訳者注:農村革新運動)のテーマ曲「明け方の鐘」は全国に鳴り広がりました。輸出こそが生きる道だと信じた我々は、カツラ、ぬいぐるみ、靴、世間では最も安っぽい商品でしたが、誠実と信用で全世界に売り込みました。他の国との計り知れない格差、ですから我々は「早く早く」こなさなければなりませんでした。早く早く作り、早く早く売り、ご飯も早く早く食べたばかりか、トイレも早く早く済まさなければなりませんでした。
このごろの若者が知っているでしょうか。君たちがあざ笑うその「早く早く」が君たちを食べさせ、君たちに教育させたことを……。
飢えから解放され、開発途上国では夢見ることもできなかったソウルオリンピック。
我々を世界の舞台に立たせ、やればできるんだという自信を植え付けました。二〇〇二年ワールドカップの全国民の歓声は、この全てを成し遂げた我々に対するエールのように聞こえました。
平昌冬季オリンピックの誘致成功はわが国を名実ともに先進国に仲間入りさせました。
文=権 鎔大(ゴン ヨンデ)
出典=『あなたは本当に「韓国」を知っている?』(著者/権鎔大 発行/駿河台出版社)
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