東京とソウルの夜景で最も違うのは「紅色の十字架」である。病院ではない。赤十字でもない。キリスト教会の十字架であり、「愛と赦し」の象徴である。半島統治時代の末期「内鮮一体」政策の最中、果敢にも朝鮮神宮の「神社参拝」を拒否した人々は「民族主義者」でもあったが、やはり「キリスト教徒」だった。
韓国は今もカトリック、プロテスタント等の各宗派を合計すると、「キリスト教」信者数は、統計により幅はあるものの、総人口の40%~60%に達するほどだ。少なくとも統計としては、韓国は「キリスト教の国」なのだ。
数年前、「帝国の慰安婦」出版問題で韓国で刑事裁判の被告とされた著者パク・ユハ(朴裕河)教授と、彼女の裁判闘争における支援者らが日本で記者会見を行った。その際、ある記者が何故韓国は多くのクリスチャンが居るキリスト教国にも拘らず、日本人への「赦しや愛」などキリスト教精神が発揮されないのかと言う質問が出た。
それに対して朴教授は、韓国のキリスト教(信者)と対日姿勢の関係について全く想定の範囲外だったようで、回答のしようが無かったようだった。一方、支援者の一人で故大沼保明氏が旧約聖書における神の命令によるイスラエル民族の異民族虐殺・差別の事例を挙げ、「キリスト教」と「愛や赦し」を結び付けるのは早計だと言ったような発言をしていた。
韓国人の儒教(就中、朝鮮朱子学、性理学)と、キリスト教に限らず、”一神教”の基本原理の一つ、一元論的世界観と他者観は非常に似ていると考えられる。つまり、正義や正統(教理)のみ存在し、それ以外は存在してはならない「邪悪や異端」なのだと看做す、一元論的な価値観だ。
事実、地動説を唱えた多くの知識人が、「邪悪・異端」と看做され虐殺されたのは、まさに「愛と赦し」を最重要教理だと説くキリスト教の教会によるものだったのは周知の事実だ。
朝鮮時代の党争では儒教(性理学)教理の正統性を巡る政争であったのだが、そこでも正統派以外は全て存在そのものを許されない「邪悪・異端」とされてしまう点は、キリスト教のそれと極めて構造的に類似している。
こうした基本的な宗教や哲学における基盤とも言える一元論的価値観(就中、世界観・他者観)が極めて構造的に類似しているからこそ、キリスト教に入信する際の文化的な、価値観的な障壁が低いのではないか。だから信者数が多いのではないか、と考えられる。
そうなると、「愛と赦し」を最重要教理とするキリスト教徒が増えても、韓国人が正義・正統(教理ではなく学説・言説)を考える、日韓の歴史観、日韓関係、日本の対韓姿勢・政策、韓国の対日姿勢・政策等から少しでも外れた場合、存在そのものを許されない邪悪・異端とされてしまうのだろう。
そして、その「韓国人が考える日本に関する正義・正統」とは、天動説やら、服喪期間の是非(朝鮮時代の礼訟論争)やら同様、科学的根拠(事実や証拠如何、事実性、普遍性等)と殆どが無関係なものになる。
故に、日本人から見ると理解困難なものになっているのだろう。精々可能であっても、半島統治や植民支配の被害体験と記憶の所為だろう程度にとどまらざるを得ないのだろう。従って、韓国は日本人が考えるような、「愛と赦し」を最重要視するキリスト教国ではないと思われる。
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