もはや外国人観光客だけにも頼れない韓国ソウルの繁華街、ミョンドンの事情(画像提供:wowkorea)
もはや外国人観光客だけにも頼れない韓国ソウルの繁華街、ミョンドンの事情(画像提供:wowkorea)
新型コロナ禍で観光産業はどの国も大きな打撃を受けており、収束後は、国内はもとより、海外からも多くの旅行客を呼び込みたいと思っているだろう。来るべき時に備えて準備も必要になる。

韓国紙・東亜日報や朝鮮日報が首都ソウルを代表する観光・商業地、ミョンドン(明洞)の不振を伝えた。コロナ収束後も、かつてのように外国人観光客頼みだけでは賑わい回復が見通せない厳しい実情があるという。

ミョンドンはソウルを旅行したことがある外国人観光客ならば、1度は訪れたことがあるだろう有名な観光スポットだ。

ミョンドン(明洞)という地名は朝鮮時代の行政区域であった「ミョンネバン(明礼坊)」に由来する。1910年からの日本統治時代には「明治町」と呼ばれ、日本人居住区として発展。文化、娯楽の中心地として栄えた。

ミョンドンが「半島の銀座」と呼ばれた当時、ミョンドンの商店の約90%は日本人が経営していたとされる。1930年代には三越百貨店の京城店をはじめ、5つのデパートが集まる激戦区となり、半島において「近代化の象徴」でもあった。

日本の敗戦で半島が解放された翌年の1946年には「明礼坊」の「明」と「人が多く集まる明るい街」という意味を合わせた、現在の「ミョンドン(明洞)」という地名が生まれた。

朝鮮戦争(1950~1953年)の時、ソウルは2回にわたり北朝鮮軍に占領された。国連軍・韓国軍による2回の首都修復の過程で、ミョンドンも大きな被害を受けた。しかし、1956年以降、都市再開発により高層ビルや金融機関、オフィスなどが次々に完成した。1965年の日韓国交正常化以降は、再びソウルを代表する繁華街として大復活を成し遂げた。

その後、1988年のソウル五輪や民主化運動の時代を経て、ソウルの繁華街がミョンドン一極集中ではなくなったため、一時は活気を失うも、2000年に大型ファッションビルが登場すると再び人気の繁華街に。

外国人観光客も増え、2004年頃には韓国ドラマ「冬のソナタ」ブームもあって、当時、通りを歩く人は韓国人よりも日本人が多いほどだった。2012年、イ・ミョンバク(李明博)大統領の独島(日本名:竹島)訪問などで日韓関係が悪くなると、ミョンドンの街は主に中国人観光客にターゲットをシフトさせ、誘客を図った。

しかし、2016年、韓国に米軍の「THAADミサイル」が配置され始めると、中国には「限韓令(韓国に対する交流を制限する措置)」が発令され、2020年からはコロナ禍で入国が制限された外国人客がいなくなった。ミョンドンの街の姿は一変したわけだ。

朝鮮日報は「ミョンドンの『素の顔』があらわになった」とし、韓国人よりも外国人観光客に重点を置き商売を続けてきた結果でもたらされた、ミョンドンの衰退の現状を伝えている。記事によると、現在、ミョンドンでは店の休業や廃業が相次いでいる。

街が爆買いをする中国観光客を対象とする商売だけに集中した結果、蔑ろにされた韓国人客はミョンドンには来なくなったとのことだ。そもそも韓国で最も公示地価(日本の路線価に相当)の地域であり、商人に対する賃貸料も中国の爆買いの影響で高騰した結果でもある。

東亜日報によると、ミョンドンの中大型の商業建物・ビルの空室率は38%、1階部分だけなら空室率は約60%に達するという。ミョンドン観光特区協議会の会長は取材に「外国人観光客の82%がミョンドンに来るほどだったため、外国人観光客に全て合わせたが、それが問題だった」と語っている。

ある眼鏡店の代表は「ミョンドンの店舗経営者たちが猛省し、昔のように韓国人客がまた来られるような販売アイテム、サービス、政策など、ミョンドンという街の多様性を確保するため努力しなければならない」と外国人観光客頼みでないミョンドンの再生を訴えているとのこと。

歴史ある繁華街ミョンドン、時代の流れで日本や中国の影響を最も受けていたミョンドンは今、難しい状況に直面している。

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