式典に出席したキム・ブギョム(金富謙)首相は「参戦英雄を国民と共に記憶して感謝し、より広い平和構築に向けて飛躍したい」と述べた。
しかし、キム首相のこの言葉とは裏腹に、韓国で「朝鮮戦争の英雄」と呼ばれた人物が国によって冷遇を受けている。昨年7月10日に99歳で死去したペク・ソニョプ(白善ヨプ)氏だ。韓国政府や韓国軍は、ペク氏の一周忌をめぐって、異例とも言える対応を取ろうとしている。
ペク氏の一周忌に関して、韓国政府や韓国軍は現在のところ公式の追悼行事を行う計画がないことが分かった。ペク氏が「朝鮮戦争の英雄」と呼ばれながら、これほどまでに冷遇されるのは、「親日派」であることが影響している。
ペク氏は1920年、現在の北朝鮮の中西部、ピョンアンナムド(平安南道)に生まれた。旧満州国で軍人となり、朝鮮半島が日本の統治から解放された後、韓国軍の創設に携わった。朝鮮戦争では若くして激戦地の戦闘を指揮。北朝鮮軍の南侵を防ぎ、連合軍とともに北朝鮮軍を北側に押し戻した。その功績が認められ、1953年には韓国陸軍初の大将に昇進した。
軍退役後は、外交官としてフランス、カナダ大使などを歴任した。韓国交通相を務めていた1970年には、共産主義者同盟赤軍派の日本人学生ら9人が日航機を乗っ取り、北朝鮮へ渡った「よど号ハイジャック事件」が発生。ペク氏は犯人グループとの交渉に当たるなど、韓国政府の閣僚として指揮を取った。
その後、ソウルに地下鉄1号線が建設されたのは、事件の解決に尽力したペク氏に対し、日本の当時の運輸大臣が「返礼として何かできることがあれば」と申し出、交通相だったペク氏が地下鉄建設の技術協力を要請したことがきっかけだった。こうした背景から、現在のソウル地下鉄の礎を築いたのは、ペク氏だったということが言える。
1974年にはソウルで韓国初の地下鉄が開通した。その日の午前、当時のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領夫人の暗殺事件が起きて、日本人が犯人との噂が広まった。「国民感情」を考慮し開通式では電車の車両の「日立製作所」の金属プレートは隠され、韓国の技術者たちと一緒に苦労しながら技術を伝授していた大勢の日本人技術者は式典に参加できなかった。後ほど犯人は北朝鮮に騙された22歳の朝鮮総連系の在日青年だったことが分かった。
一方、多くの功績を残して99歳で生涯を閉じたペク氏だが、昨年7月10日に死去した際も、国の冷遇ぶりは際立っていた。大統領府は「申し上げる言葉はない」とし、ソウル市内に設けられた焼香所も保守系の市民団体が強行して設置したものだった。当局が焼香所の設置を拒んだからだ。
告別式にもムン・ジェイン(文在寅)大統領や、革新系執権与党「共に民主党」の執行部が参列することはなかった。
一方、ペク氏の1日前に秘書に対するセクハラが発覚し自殺したパク・ウォンスン(朴元淳)前ソウル市長の焼香所はソウル市が主導して設置。女性人権や慰安婦問題の人権派弁護士としても有名だった彼の葬儀はソウル市民の税金を使い市が主催する「公葬」で執り行われており、ペク氏の場合とは対照的だった。
間もなくペク氏の一周忌を迎える。国防部と陸軍は「関係機関や団体が支援を求めてきた場合には可能な範囲でサポートしたい」と協力姿勢を示すも、国や軍として追悼行事を行う予定はないとしている。
ペク氏は日本統治時代、満州国の間島特設隊に所属していた。間島特設隊には日本からの独立を目指す朝鮮の勢力を弾圧する任務があったため、ペク氏は「親日派」とみなされることとなった。「親日清算」を掲げる現在のムン政権で親日派は「民族の敵」として排除の対象となっているわけだ。
どんなに英雄とされる人物でも、ひとたび「親日派」の烙(らく)印を押されれば、国からの冷遇が待ち受けている。徹底した排斥は死後も続く。中国で活躍した独立運動家の子孫とされる「光復会」のキム・ウォヌン(金元雄)会長は、「国立墓地から掘り返す」と言い「親日派の破墓法」を主張している。キム・ウォヌン会長の父親で武装闘争系の独立運動家とされる故キム・グンス(金根洙)氏はペク将軍と同じ国立墓地にいる。
「G8」を目指している今の韓国。北朝鮮と背後の共産主義大国から自由民主主義を守り、「漢江の奇跡」を実現し、属国と飢死の歴史から民族を救ったのは誰なのか?ペク将軍なのか、キム会長の父親なのか。
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