(画像提供:wowkorea)
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1876年(高宗13年)2月、朝鮮と日本の間には「江華島条約」が締結された。条約では元々大きな枠組みで両国間で合意した内容のみ扱われるようになる。従って関税や開港地の滞在可能な相手国人員の規模など、膨大な細則に関しては別途の実務交渉の手順を経なければならない。

ところが「江華島条約」の締結後、朝鮮はこのような事後処理の措置を取る考えを全くせず、ひたすらそのままでいようとした。条約締結で朝鮮が何か少しでも変わるだろうと期待していた日本は、このような朝鮮の有様からもどかしさと共に失望感を持つようになった。

朝鮮の内部事情は条約締結後も変化が一つも無かった。「衛正斥邪」(※訳者注:性理学的な正義に基づいて、邪悪を排斥するという理念)を主導していた性理学者のチェ・イクヒョン(崔益鉉)は、日本の使臣の黒田清隆が江華島条約を強要したとし、斧を持ってクァンファムン(光化門)に登場して黒田の首を切らねばならないと語り、上疏(※訳者注:君主に対して報告もしくは要望・意見を奏上する行為)した。

朝鮮の指導部が相変わらず「衛正斥邪」勢力に足を引っ張られて一寸も抜け出せない有様を見た日本は、仕方なく乗り出すほかなくなった。朝鮮の指導層に日本の近代化した姿を直接目に見せることによって、指導層が刺激されて近代化に対する認識を新たにするようになれば、条約に伴う実務作業が容易く進むだろうと日本は期待した。

故に出て来たアイディアがまさに中断されていた「朝鮮通信使」の復活だった。名称は朝鮮と日本の間の信義を新たに修めるという意味から「修信使」とした。以前の朝鮮通信使のニュー・バージョンみたいになるわけだ。

朝鮮通信使の際にそうであった如く、朝鮮修信使の訪日費用もまた日本が全額負担するとした。日本までの交通手段まで日本側が全て提供したりもした。ただし、人員規模は過去の通信使のような400~500人の大規模なものでなく、実務型で大幅に縮小しようと日本側が朝鮮側に提案した。すると朝鮮側は「どういうことか?それでも最小限、我が国・朝鮮の威容を表し得る規模とならねばならない」と退かず、結局76人と決定された。

ところが76人中の30人余りが風楽隊(※訳者注:伝統音楽の楽団)と旗手団の人員で構成された。日本人に朝鮮修信使の一行が文明国から来たということを広く誇示して誇るために、風楽隊と旗手団の同行に固執していたのだ。

朝鮮修信使の代表には、キム・ギス(金綺秀)という人物が選定された。金綺秀は当時の日本の状況と世界情勢を理解しようとする意志が全く無かった。当時の王・高宗は出発前に金綺秀にこう命令した。

「日本が費用を全て出すと言うので、汝が日本の物情をよく調べてみるのを望む。特に日本の軍事技術をよく調べて漏れなく記録すれば良いだろう」

金綺秀は性理学と朱子学を信奉する者として平素から朝鮮の小中華文明が日本よりはるかに優越した文明だという信念で満ち溢れた人物だった。金綺秀のような人物を修信使代表として選んだ事について、朝鮮の指導部だけの誤りとして扱い得ない。

何故ならば、当時の朝鮮の指導層の全てがこんな風な性理学の信奉者しか存在していなかった所為で、金綺秀でなく他の誰かを代表として任じたとしても、事情は全く同じだったからだ。選択肢が全く無かったのだ。

当時の朝鮮で頭脳が少し冴えた人物をあえて挙げれば、通訳翻訳の担当官であったオ・ギョンソク(呉慶錫)のような人物程度だった。しかし呉慶錫のような人物は両班階層でなかったために、高位の官職に昇進出来なかった。

呉慶錫のような人物たちは外国の文物に素早く接すると同時に頭脳は冴えていたが、身分の限界の為に、夢を実行出来ないようになっていた。彼は後日、キム・オクキュン(金玉均)などの両班出身の青年開化派を誘い込むようになる。

金綺秀は高宗の依頼にも拘らず、朝鮮修信使の代表として自分の役割を自ら「仕方なく日本に行くが、これは伝統的礼法に従って、条約締結時に日本側が朝鮮に来たことに伴う儀礼的な答礼訪問の次元だ」と規定した。

当時の朝鮮には丁度良い船舶が無かった。日本は朝鮮修信使の一行の為に、日本の内務省専用蒸気船の黄龍丸を送ってくれた。朝鮮修信使の一行は江華島条約締結の3か月後の1876年5月29日にプサン(釜山)を出発して下関を経て、日本の横浜に到着した。

横浜に到着した後は汽車に乗るようになったのだが、金綺秀を始めとした修信使の一行はこの時、蒸気機関車に衝撃を受けるようになった。金綺秀は自ら記した『日東記遊』に日本の蒸気機関車を「火輪車」と表現した。金綺秀は日本の蒸気機関車についてこう記した。

「雷と稲妻のごとく走り、風雨のごとく跳び上がって、1時間に300~400里を走ると言うのだが、車体の中は穏やかで揺れなかった。左右の山川、草木、家屋、人間が見えたりはするが、前後からパッパッと浮かんだり消えたりするので、手の施しようが全くない。煙草をいっぷく吸う間に、既に東京の新橋に到着した」

朝鮮修信使の金綺秀ら一行は東京到着の2日後に日本の天皇に謁見して、日本政府の周旋で日本の政官界の実力者50人余りと出会った。日本の初代帝国博物館長として駐米公使を歴任した日本の哲学者「九鬼隆一」は、金綺秀代表が口を開きさえすれば性理学・朱子学に言及するのに関してこう質問した。

「貴国(朝鮮)の学問は全面的に朱子のみを尊ぶのか、でなければ他の学問も尊ぶのか?」

金綺秀代表はこう答えた。

「我が国・朝鮮は500年の間、朱子だけを尊んできた。朱子に反する者は乱賊と言う罪状で処断してきた。その国法は重く厳格で、上下貴賤を問わず皆がひたすら朱子だけを尊んできただけだ」

(つづく)

※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。
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