(画像提供:wowkorea)
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韓国のノ・テウ(盧泰愚)元大統領が本日(26日)、死去した。

ノ・テウ元大統領は日本統治時代1932年、朝鮮半島の東南部の都市「大邱」で生まれた。大邱工業高校に入学したが、名門学校の慶北高校に転校した。卒業後は、韓国陸軍士官学校の第11期生徒として入学した。1945年の太平洋戦争の終戦や1950年の朝鮮戦争もあり、エリートたちが士官学校を目指していた時期であった。

ノ・テウ生徒は士官学校の同期チョン・ドゥファン(全斗煥)生徒と大の仲良し。士官学校を卒業し、軍人として空輸特戦旅団長などを歴任し軍人として成功を収めながら、親友のチョン・ドゥファンらと一緒に「一心会」を結成した。この名前は日本風と受け止められやすく、後ほど「ハナ会」に改名された。韓国語の「ハナ」は「一」を意味する。

1979年10月26日、「開発独裁者」と呼ばれる当時のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領が部下により暗殺された。暗殺犯を援護する勢力が政権の空白を狙っていたタイミングだった同年12月12日、ノ・テウはチョン・ドゥファンなどの「ハナ会」のメンバーと共にクーデターを起こした。

政権を掌握したクーデター勢力の代表チョン・ドゥファン(全斗煥)将軍は「間接」選挙により大統領となった。1980年5月には光州事件(後ほどの名称は、光州民主化運動)が勃発し、ノ・テウ将軍はチョン・ドゥファン将軍とともに、「2大責任者」とも言われることとなった。

チョン将軍が大統領に就任した後、ノ・テウ(盧泰愚)将軍も軍から退役。政治家になり体育長官(体育相)・内務部長官(内相)・与党の代表を務め、ソウル五輪の組織委員長として活躍した。

1987年1月、光州事件の責任を追及しながら民主化運動をしていたソウル大学の学生が公安に連行され、水槽で「水拷問」を受け、窒息死した事件が発生した。公安に呼ばれた医師は公安から「心臓麻痺」として処理するよう圧力を受けたが、ソウル大学出身だった医師は、後輩の死に対して「良心宣言」を行う。これをマスコミが報道することで、全国規模の民主化要求のデモが勃発した。

その時、重要な要求の一つが「大統領の間接選挙を撤廃し、直接選挙を実施せよ」だった。またも間接選挙の場合は、チョン大統領の親友ノ・テウ氏が次期大統領になる可能性が高かったからだ。

1987年6月、ノ・テウ氏は大勝負に出た。デモ隊の要求に応じ、改憲を通じて「大統領の直接選挙」を受け入れることと「野党指導者キム・デジュン(金大中)氏を赦免・復権する」ことを発表。これは「6・29民主化宣言」と言われている。

「6・29民主化宣言」で大衆の人気を得たノ・テウ(盧泰愚)氏は、1987年12月の直接選挙で大統領に当選し、1988年2月には第13代大統領に就任した。赦免・復権された野党指導者キム・デジュン(金大中)氏とキム・ヨンサム(金泳三)氏が分裂して、各々大統領出馬していたこともノ大統領当選の要因と言われていた。韓国大統領選挙はヨーロッパみたいに1位が一定の得票率を超えない場合、上位2人だけの再投票をする制度がなく、「一本勝負」だからだ。

就任後、親友であり前大統領であったチョン・ドゥファン政権の不正容疑を徹底して追及したり、政敵だったキム・ヨンサム氏を保守系の与党に招くなどで、国政を安定させた。軍や警察を動員し、組織暴力団を一掃する「犯罪との戦争」で韓国の治安を確立し、高い人気を得ていた時期もあった。

1988年、ノ大統領の娘ノ・ソヨン(盧素英)氏と石油・化学繊維業の財閥「SKグループ」の御曹司チェ・テウォン(崔泰源)氏が結婚した。翌年、韓国政府はSKグループを移動通信事業者に選定、今の韓国携帯電話キャリアー最大手の「SKテレコム」が誕生した。

ノ大統領は、1988年のソウル五輪を成功裏に開催した後、1989年の米ソ冷戦の終結を受けて、「北方外交」を提唱した。1990年にはソ連と、1992年には中国と国交を樹立した。この時、台湾(中華民国)とは電撃断交をし、台湾の恨みを買った。1991年、韓国と北朝鮮の「南北同時国連加盟」を実現した。

1990年、ノ大統領は「民主化」大統領として初めて来日し、当時の海部俊樹総理や明仁天皇(現、上皇)と会談した。この日本訪問の際に謝罪を要求し、韓国でも有名な「痛惜の念を禁じ得ない」との天皇発言はこの時のことだ。元慰安婦問題もこの時期に初めて問題提起となった。

1993年、ノ・テウ大統領の退任後、革新系から保守系に自ら招いたキム・ヨンサム(金泳三)氏が大統領となった。しかし、キム・ヨンサム政権の1995年、政治資金の隠匿が発覚しノ元大統領は拘束された。第一審で無期懲役の判決、控訴審では懲役15年と約2600億ウォンの追徴金の判決を受けた。

その頃、キム・ヨンサム大統領が1979年の粛軍クーデターと1980年の光州事件の再捜査を直接指示し、その責任が上乗せされた1997年の裁判で、大法院(最高裁判所に該当)はノ元大統領に懲役17年と2688億ウォンの追徴金を確定した。その後、ノ・テウ元大統領はキム・ヨンサム大統領の特赦(恩赦)により赦免された。

ノ元大統領は持病の治療のため、漢方の鍼術を愛用していた。2011年には長さ6.5cmの鍼を打っていたが、それが気管支に入り、病院で除去手術を受けたことが報道されたりもした。

また、2012年12月、ノ・テウ元大統領の追徴金未納などに不満を持った男により、大邱市に位置するノ元大統領の生家が放火された事件もあった。

2021年10月26日、ノ・テウ元大統領はソウルの病院に入院中に死去した。享年88歳。

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