彼は1931年、日本統治期の朝鮮半島の南部キョンサンナムド(慶尚南道)のハプチョン(陜川)で生まれた。父親は民間療法で村人を診療していた。朝鮮時代に支配層だった両班の家柄だったが、経済的には没落していた。
6男4女の4男として生まれた彼は、5歳の時、家族揃って半島中部のテグ(大邱)に移った。一家で満州へ移住した時期もあったが、満州でも父の民間医療業が失敗、1941年、10歳の時に大邱へ戻った逸話がある。
1945年、日本が敗戦し半島は独立したが、韓国と北朝鮮が南北に成立・対立し、1950年には朝鮮戦争が勃発。彼は朝鮮戦争中に陸軍士官学校に11期として入学し、同期のノ・テウ(盧泰愚、後ほどの13代大統領)生徒と仲良しとなった。
1960年、不正選挙で初代大統領イ・スンマン(李承晩)氏が米国に亡命、韓国は民主化要求のデモなどで混乱に巻き込まれた。1961年、混乱の収拾と北朝鮮の脅威を名分とし、陸軍士官学校先輩(2期)パク・チョンヒ(朴正煕)氏がクーデターを起こすと、チョン氏は陸軍士官学校生徒たちの支持デモを主導した。
1963年、当時の権力機関「国家再建最高会議」の秘書官に抜擢され、中央情報部長(韓国CIA)の人事課長を経て、1970年11月から白馬部隊の連隊長としてベトナム戦争に派遣されるなど、軍人としてエリートの道を歩んだ。
1979年、チョン氏は国軍保安司令官になったが、10月26日にパク・チョンヒ大統領が暗殺された。非常戒厳令が発令され、暗殺犯キム・ジェギュ(金載圭)が「民主化のため」と陳述。これに同調するような戒厳司令官の動きに反発し、チョン氏は1979年12月12日に、粛軍クーデターを起こし権力を握った。
以降、政局の混乱が続くと、1980年5月17日に、非常戒厳令の拡大措置を実施し、民主化要求の核心人物であったキム・デジュン(金大中、後ほどの15代大統領)氏などの政治家を逮捕・軟禁した。これに反発していたキム・デジュン氏の地元・光州では民主化要求デモが激しくなった。
デモが激しさを増す中、市民と警察に死亡者が出て軍隊が出動した。「市民軍」が組織され武器庫から銃器や手りゅう弾などが奪われるまで至った。鎮圧のため軍の特殊部隊が投入され、市民軍と特殊部隊の戦闘が勃発、両側で多数の死亡者が発生した。これは「5.18光州事件」または「光州民主化運動」と呼ばれ、日本でも有名な映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」などにも描かれている。
10日間の光州事件の死亡者は166人、行方不明者は54人、負傷者は3,139人だった。その中、軍人の死亡者は23人、警察の死亡者は4人だった。負傷者の中、後遺症による死亡が認められているのは376人である。
1980年9月、チョン氏は11代大統領に就任。翌1981年には憲法が改正され、韓国の「第5共和国」が成立し、チョン氏は12代大統領となった。米国の制度を参考にし、大統領は選挙で選ばれた「選挙人団」の投票による「間接選挙」の制度となった。また、長期に渡る独裁の歴史から、独裁防止の装置として大統領の任期を「7年間の単任制」とした。
1980年10月、北朝鮮のキム・イルソン(金日成)主席が半島統一案として「コリョ(高麗)民主連邦共和国」設立を提案したが、チョン氏は拒否した。1981年には「国風81」などの管制フェスティバルを開いた。また、1982年は朝鮮時代以来の「夜間外出禁止令」を解除し、プロ野球リーグを導入、映画輸入を活性化した。これは「3S政策(Sports、Screen、Sexの政治利用)」と言われ、「光州事件」から国民を目を離そうとしたと言われていた。
1983年にはミャンマー訪問中、北朝鮮の工作員がチョン氏暗殺を狙った「ラングーン爆弾テロ事件」が起きた。チョン大統領は無事だったが、多くの閣僚を失った。
チョン氏は日本に対して「韓国の経済発展は北朝鮮に対する防波堤」との論理で60億ドルの経済援助を求めた。1984年には日本を訪問し、戦後の韓国大統領として初めて天皇主催の晩餐会に参加した。当時の日本首相は中曽根康弘氏で、2人は親密な関係となった。
日本の助けなどによる経済発展や1986年にはアジア大会を開催、1988年のソウルオリンピックを誘致するなどの業績を残した。
チョン氏が自ら作った「7年間の単任制」により退任を迎えようとした1987年。与党代表となっていたチョン氏の親友のノ・テウ氏が1987年12月予定の「間接選挙」により、後任の大統領になると予測されていた。
1987年1月、民主化を求め学生運動をしていたソウル大学に在学中のパク・ジョンチョル学生が令状なしで強制連行され、死亡する事件が起きた。警察は社会混乱勢力の取り調べ中、心臓麻痺による死亡と発表した。しかし、検死をしたソウル大学出身の医師が「良心宣言」をし、マスコミに「水拷問」の事実をリークした。この影響で、全国的な民主化デモが勃発した。
1987年6月にはデモ中にヨンセ(延世)大学に在学中のイ・ハンヨル学生が催涙弾に直撃され死亡する事件が起きた。デモの主な要求は改憲による「大統領の直接選挙」だった。
デモが激しくなると、1987年6月29日、チョン氏の了解の上、親友で執権与党の大統領候補ノ・テウ氏が改憲で「大統領の直接選挙」実施を約束し、全国規模のデモは鎮静となった。同年10月には憲法が改正され、今の制度「大統領の直接選挙」と「5年間の単任制」となった。
1987年12月の大統領直接選挙では、「流血事態を防いだ英断」をしたとされるノ・テウ氏が次期大統領に当選する。キム・デジュン(金大中、後ほどの15代大統領)氏やキム・ヨンサム(金泳三、後ほどの14代大統領)氏の「候補単一化」失敗もあったが、選挙の直前に北朝鮮の工作員キム・ヒョンヒ(金賢姫、後ほど日本人拉致被害者・横田めぐみ氏から日本語を学んだと陳述)らによる大韓航空機爆破事件が起きて、南北関係は緊迫状態となったことも、ノ氏当選の一因と言われている。
翌1988年にはノ・テウ政権の下、ソウル五輪が開催され、チョン・ドゥファン政権に続き、治安の安定と経済発展が続いた。日本との関係も良好だった。
チョン元大統領は退任後、自ら財団を設置し「院政」を狙う動きもあったが、在任時の利権介入などが発覚しチョン氏の実弟が逮捕された。1988年11月には私財の献納し、韓国東部のカンウォン(江原)道の寺「百潭寺」で隠遁生活を送った。
ノ・テウ大統領の退任後の1995年、チョン氏元大統領は光州事件の責任追及で、死刑判決を受けた。光州事件でチョン元大統領が「発砲命令」を下したのかが核心争点であったが、本人は一貫して否認し、証拠もなかった。後ほど、大統領の特赦で減刑された後、特赦で釈放された。
1995年判決の追徴金の未納状態が続き、2013年、通称「全斗煥追徴法」が成立した。この時、チョン元大統領の「私の財産は29万ウォン」との言葉を残し、有名になった。
2017年には回顧録「混沌の時代」を出版し、光州事件に関しても書いた。事件当時、「軍のヘリコプターがデモ隊に対して射撃することを目撃した」としていた故チョ・ビオ神父を「聖職者という言葉が虚しいほど破廉恥な嘘つき」と批判、翌2018年にはチョ神父の遺族の意思で「死者名誉毀損」で告訴された。
チョン元大統領はソウル居住であり、光州事件が起きた光州での裁判は公平ではないと、忌避申請をしたが棄却された。2020年11月、光州地方裁判所で懲役8か月、執行猶予2年の判決を受けたが、チョン氏はこの判決に反発し、抗告していた。
2021年8月、チョン元大統領は控訴審の裁判中に呼吸困難を起こした。延世大学病院に入院した数日後、多発性骨髄腫を患っていると発表された。
本日の2021年11月23日午前、チョン元大統領はソウル市ソデムン(西大門)区ヨンヒドン(延禧洞)の自宅で死去した。享年90歳。
光州事件に関して息子を通じて謝罪していた親友で同志のノ・テウ氏の死去から28日後のこと。チョン元大統領は、謝罪せず「光州事件は暴動だった」との立場を覆さずに亡くなった。
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