朝鮮半島が南北に分断後、互いを敵視してきた韓国と北朝鮮が、初めて会って交わした対話だった。
韓国統一部(省に相当)は4日、国民の知る権利と対北朝鮮政策推進の透明性を向上するために、作成されてから30年が過ぎた南北会談文書を試験的に公開することにした。一般国民に初めて公開された南北会談文書は、1970年8月から1972年8月まで南北会談記録が含まれた「南北対話史料集」第2・3巻だ。
南北間の初対話は1971年8月20日、パンムンジョム(板門店)中立国監視委員会の会議室で開かれた第1次派遣員接触だった。
南北の初対話は、大韓赤十字社のチェ・ドゥソン総裁が初対話の8日前、南北家族探し運動協議のために南北赤十字会談を提案したことがきっかけとなった。その提案に朝鮮民主主義人民共和国赤十字会中央委員会のソン・ソンピル委員長が応え、再会問題を論議するために歴史的な出会いが実現した。
派遣員の対話には、韓国側から大韓赤十字社のイ・チャンリョル事務部長とユン・ヨフン渉外部参事、北朝鮮側からはソ・ソンチョル文化宣伝部副部長とヨム・ジョンリョン指導員らが出席した。
1945年に朝鮮半島が分断してから、26年後に実現した南北の対話は、わずか約4分で終わった。
対話は午前11時58分に大韓赤十字社の派遣員が会場に入場し、12時1分に北朝鮮の派遣員が入場して始まった。その後に文書の交換を終えて、12時5分に退場したと、会議録には記録されている。
初の会談は短い時間ではあったが、南北間の神経戦も繰り広げられたという。
北朝鮮側は「北朝鮮」と「北朝鮮赤十字会」という表現について、「われわれの正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国赤十字会中央委員会だ。今後もこの名称どおり、正確に書いてほしい」と求めた。
これに韓国側も「われわれの正式名称は、大韓赤十字社だ。簡単だ。皆さんも覚えておいてほしい」と応酬した。
北朝鮮側が「南朝鮮」、「南朝鮮赤十字社」と呼ぶことについて、韓国側も言い返したわけだ。
初めての出会いは、冷めた雰囲気だったが、会う回数が増えるにつれ、お互いの故郷やタバコの話をするなど、やや雰囲気も柔らかくなったという。
北朝鮮側が準備していた「サイダー」を手に持って、「われわれは単一朝鮮民族の血をつなぐ仲になるため」、「今後良い会談になることを願いながら」など、乾杯の音頭とともに乾杯した。会談には北朝鮮側が持ってきた高麗人参茶や、韓国側が用意した七星茶も出されたという。
167センチのユン・ヨフン大韓赤十字社渉外部参事と、北朝鮮側で165センチのソ・ソンチョル副部長の身長をめぐって、南北の派遣員たちが「背の低い人がつぐサイダーを飲んだので、背がもっと高くなりますよ」、「背の低い人がつぐサイダーを飲んだので、背が低くなるのではないかと心配だ」という冗談まで交わした。
しかし、その後、予備会談では、会談場所や合意文案など敏感な事案をめぐって激しい摩擦を起こす瞬間もあった。
結局、南北は紆余曲折(うよきょくせつ)の末、第20回予備会談で家族や親戚の住所と生死を把握して知らせることにした。また、家族や親戚の自由な訪問と再会、家族や親戚の自由な手紙のやり取り、自由意思による家族の再結合など、本会談の議題として扱う内容を合意書で交換した。
今回、韓国統一部が公開したのは、第1~5回南北赤十字派遣員接触、第1~25回南北赤十字予備会談、第1~13回議題文案および第1~3回進行手続き実務会議などが記録された文書だ。
公開された文書は計1652ページ分量だが、会談の戦略や実務担当者、詳細公開時に国家へ重大な利益を侵害する事項、個人情報などと関連した418ページは非公開にした。
当時、イ・フラク中央情報部部長とパク・ソンチョル北朝鮮副首相のピョンヤン(平壌)とソウルの極秘訪問、これに先立つ実務者の秘密接触の内容も公開しなかった。
一方、今回公開された文書は南北会談本部と国立統一教育院、北朝鮮資料センターの3か所に設けられた「南北会談文書閲覧室」を直接訪問すれば閲覧できる。公開リストをはじめ具体的な閲覧手続きは、南北会談本部ホームページに掲載中だ。
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