ある韓国の商社マンが通産省(現経済産業省)に輸出の認可を陳情しに行き担当事務官から「検討します」との返事に小躍りして本社に「許可してくれる」と報告しました。けれども日にちが立っても「うんともすんとも言って来ない」ので周りの日本通の人に聞いたところ韓国では「検討する」とは“前向き”な表現だけど、日本では直接拒絶すると相手が傷つくため“検討する”とは“否定”の意味だと知らされガックリしたエピソードが今でも語り草になっています。
中国での話ですが地方政府のトップと韓国の会社のトップの面談交渉はぎりぎりまで神経を使いました。党書記や省長が出席すると言われてその言葉をうのみにして本社に報告し痛い目に遭ったケースが多々ありました。中国側は面談の重要度や相手側のトップの存在感などを検討して格が違うとなると平気で前言を翻しトップは参席せず副書記や副省長を出席させます。こちらとしては結果的に本社に虚偽報告したことになり大目玉を食らう羽目になります。ですから、それ以後地方政府との面談交渉にあたるときは相手からトップがくると言われても絶対その通り報告しないようにしていました。万が一のために。もし相手側の言う通り党書記や省長が参席した時は、最後まで粘り強く交渉したためトップが参席したと報告し「よくやった」とほめられました。この様に国によって価値観や慣行がちがうので充分に研究してからあたるべきです。
日本の話に戻りますが、ソウルから地方都市の高松にチャーター便を飛ばした時の日韓の違いを紹介します。
定期便のない都市間で臨時に飛行機を飛ばす時はCIQ(税関、出入国、検疫)の助けが必要です。国際線の定期便がない都市には当然、上記の官庁職員が常駐していないのでその日だけ近くの港から応援に来てもらわないと飛行機を飛ばす事が出来ません。普通、税関と法務局(出入国)は人員が多いので頼めば協力してもらえますが、検疫は人数も少ないのでなかなか来てもらえません。特にチャーター便は週末に飛ばす為休日出勤をしたがりません。税関や出入国は手間がかかりますが、検疫は普通異常なしと書類にサインするだけです。
韓国の解決方法でしたら“餅代”として5万円ほど包んで事務所の長にお願いすれば何とかなります(今では考えられないことです)。こんな韓国的手法を日本で行なったら即、収賄罪で逮捕されたことでしょう。東京から高松の港まで毎週3回ほど千~千五百円程度(この金額を超えると受け取ってもらえません)のお茶菓子を持って足しげく通ってやっとOKが出ました。東京から毎週高松まで出張した費用と手間暇を換算したら韓国方式が安上がりですが、“郷に入れば郷に従え”でした。このことから日本では何度も何度も誠意を尽くせば何とかなるという事を学びました。
地方都市の話が出ましたので1990年代のソウルと日本の地方都市(東京・名古屋・大阪・福岡を除く)の就航についてお話しします。90年4月、アシアナ航空の仙台乗り入れを皮切りに本格的な地方都市とソウルとの国際線定期便が新設されブームになりました。高松、沖縄、広島、松山、米子、福島、大分が後に続きました。この地方路線は日本航空や全日空など日本のキャリアは飛行機の運航効率やマーケット事情などであまり関心がない反面、韓国の航空会社には日本の旅行客を韓国はもちろんソウルから乗り継いで世界各国に運べる利点がありました。
当時地方都市から欧米諸国に行くには国内線で羽田に来て成田までバスか電車で乗り継いでいくしかなかったのですが、ソウル経由だと同じ空港で乗り継げるので便利でした。ですから日本側としては韓国が地方都市に就航する事に消極的にならざるを得ません。韓国キャリアは航空会談があるたびに地方都市乗り入れをお願いし、日本側は渋々少しずつ門戸を開きました。
しかし近年韓国人の旅行客が増えてからは事情が変わりこの時渋々門戸を開いた地方路線が日本の地方経済の活性化の一翼を担うようになっただけでなく日韓両国民が1日2万人往来する“友好の足”となったことに誇りを感じます。
今でも当時の国際航空課長とお付き合いしていますが、われわれは今日このような交流が活発になることを予測して地方都市路線開設に踏み切る先見の明があったと冗談交じりで語りながらお酒を酌み交わしています。
※権鎔大(ゴン・ヨンデ)韓日気質比較研究会代表の寄稿。ソウル大学史学科卒業、同新聞大学院修了。大韓航空訓練センター勤務。アシアナ航空の日本責任者・中国責任者として勤務。『あなたは本当に「韓国」を知っている?』の著者。
Copyrights(C)wowkorea.jp 5