<W解説>韓国孤児に生涯を捧げた田内千鶴子さん、生誕110年で式典(画像提供:wowkorea)
<W解説>韓国孤児に生涯を捧げた田内千鶴子さん、生誕110年で式典(画像提供:wowkorea)
「韓国孤児の母」と呼ばれる田内千鶴子さん(1912~1968年)の生誕110周年を記念する式典が先月28日、韓国南西部のチョルラナムド(全羅南道)・モッポ(木浦)にある児童福祉施設「木浦共生園」で開かれた。日韓両国の関係者や地元市民など約750人が出席し、田内さんの生前の取り組みをたたえた。

 田内さんは1912年、高知市生まれ。日本統治時代の1938年、木浦でキリスト教伝道師のユン・チホ(尹致浩)氏と結婚し、以降、ユン・ハクチャ(尹鶴子)と名乗った。当時、庶民の生活は苦しく、孤児も増えていく中、田内さんは尹氏が木浦で始めた孤児院「木浦共生園」の活動に携わり、夫婦は多くの孤児の父母となった。「共生園」はその後教育機能を備えた施設へと発展していった。

 1946年、田内さんは母親と2人の子どもを連れて一旦は故郷の高知に引き揚げたが、木浦に残してきた夫や孤児たちへの思いが募り、翌年に母親の説得を振り切り韓国に戻った。1951年に朝鮮戦争で夫が行方不明になった後は、その遺志を継いで孤児救済のために尽力した。

 その功績が認められ、1963年に韓国政府は田内さんに日本人初となる文化勲章国民章を授与した。当時のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領は田内さんについて「私たちの子ども(韓国の子ども)を守って育ててくれた人類愛の人」とたたえた。田内さんは受章を祝う席で「夫が帰る時までと思い、園を守ってきただけ。苦労は子どもたちがしました」と答えている。1968年に病で倒れて56歳で生涯を閉じるまで、3000人もの孤児を育てあげた。死去した際、木浦市は市民葬を執り行い、3万人が参列したという。

 韓国孤児のために捧げた田内さんの生涯は1992年2月、当時日本テレビ系列で放送されていた人物系ドキュメンタリー番組「知ってるつもり?! 」で紹介され、これがきっかけとなって日韓合作映画「愛の黙示録」(1995年)が制作された。制作にあたっては、高知市民による「映画を成功させる会」が発足し、多額の支援金が集まったという。

 韓国では当時、日本の大衆文化が解禁されようとしており、同作品は韓国政府の日本大衆文化解禁認可第1号として上映を認可された。このことについて当時の小渕恵三首相は「『愛の黙示録』の上映が、これからの日韓文化交流の出発点となったことを喜んでいる」と語った。

 田内さんの故郷、高知では、中学生用の道徳教育の副読本で田内さんの生涯が紹介された。また高知市内には1997年に田内氏生誕地の碑が建立された。石碑に使われた石は、木浦から運ばれたものだという。碑の周りは、田内さんが育て上げた孤児3000人にちなみ、3000個の小石が敷き詰められた。以来、田内さんの命日である毎年10月31日にはこの場所でしのぶ会が開かれている。また、碑の建立がきっかけとなり、高知県と全羅南道の間では観光、文化、産業分野で交流が始まり、2016年10月31日、高知県と全羅南道は姉妹交流協定を結んだ。

 田内さんの思いはその後設立した「共生福祉財団」によっても受け継がれている。同財団では現在、「国連世界孤児の日」の制定を目指し活動を展開している。

 今月31日に田内さんの生誕110周年を迎えるのを前に、28日、木浦で記念式典が開かれた。日本からは高知県の浜田省司知事や、県議会の明神健夫議長など40人からなる友好代表団が出席した。全羅南道のキム・ヨンロク知事は式典で「尹鶴子(田内さん)氏が共生園で実践した尊い意思を受け継ぎ、尹氏の念願だった『孤児のいない世界』をつくるため、『国連世界孤児の日』の制定に向けてさらに努力していく」とあいさつした。ユン・ソギョル(尹錫悦)大統領のメッセージも読み上げられ、尹大統領は「激動の中でも子供たちを守ろうとした田内さんの愛と献身は、日本と韓国の国民の心を動かした」と功績をたたえた。

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