明洞といえば、ソウルを旅行したことがある外国人観光客ならば、1度は訪れたことがあるだろう有名な観光スポットだ。明洞という地名は当時の行政区域であった「ミョンネバン(明礼坊)」に由来する。日本の統治時代には「明治町」と呼ばれ、日本人居住区として発展。文化、娯楽の中心地として栄えた。当時、明洞の商店の約90%を日本人が経営していたとされる。1930年代には三越百貨店をはじめ、5つのデパートが集まる激戦区となった。
解放後の1946年に「明礼坊」の「明」と「人が多く集まる明るい街」という意味を合わせた、現在の「明洞」という地名が生まれた。
朝鮮戦争(1950~53年)により大きな被害を受けたが、56年以降、都市再開発により高層ビルや金融機関、オフィスなどが次々に完成し、60~70年代には再びソウルを代表する繁華街として復活した。
その後、ソウル五輪や民主化を経て、ソウルの繁華街が明洞一極集中ではなくなったため、一時は活気を失うも、大型ファッションビルが登場すると再び人気の繁華街に。外国人観光客も増え、2004年頃には韓国ドラマ「冬のソナタ」ブームもあって、当時、通りを歩く人は韓国人よりも日本人が多いほどだった。その後、ブームが去ると、明洞の街は主に中国人観光客にターゲットをシフトさせ、誘客を図った。
しかし、コロナの流行以降、明洞の街の姿は一変した。店の休業や廃業が相次ぎ、商業地にある建物・ビルの空室も目立つようになった。明洞の商業施設や店舗の空室率は徐々に低下してきているが、一時期は42%を超えていた。
明洞の商圏が、長年、地元民よりも外国人観光客向けの商業展開に重きを置いたことが、コロナ禍になって打撃をより大きくしたとの指摘もある。明洞で店舗を営む関係者からは「店舗経営者たちが猛省し、昔のように韓国人客がまた来られるような販売アイテム、サービス、政策など、明洞という街の多様性を確保するため努力しなければならない」と外国人観光客頼み一辺倒でない明洞の再生を訴える声も上がっている。
コロナがエンデミック(一定期間で繰り返される流行)に移行し、海外からの韓国入国が再開されたことで、外国人旅行者は増加している。韓国観光公社によると、昨年12月に韓国に入国した外国人観光客は53万9273人で、前年同月の約6倍増加した。国・地域別では、日本人が前年比約83倍の8万4175人で最も多く、続いてシンガポール(5万711人)、タイ(4万1026人)、台湾(2万9066人、中国(2万7367人)、香港(2万7146人)の順だった。
明洞もかつてのような活気を取り戻しつつあり、コロナ禍で休店していた店が再開する動きもみられる。昨年3月に閉店したダイソー明洞店はリニューアルを終え、従来の1~5階から1~12階に規模を拡大した。アディダスコリアも先月、明洞にフラッグシップストア「アディダス・ブランド・フラッグシップ・ソウル」をオープンした。
しかし、今後の見通しを厳しく見通す経営者もいる。明洞の化粧品店のある経営者は、韓国紙・中央日報の取材に「今やエンデミックに移行したとはいえ、まだ、化粧品店は希望が見えない雰囲気」と話した。かつて明洞は「Kビューティーのメッカ」とも言われた。しかし、コロナ禍で化粧品店は2019年12月の128店から2021年12月には25店にまで激減。一部店舗が再開したが、昨年10月の時点で明洞にある化粧品店は28店にとどまっている。化粧品を爆買いしていた中国人観光客の足が依然、途絶えていることに加え、最近、化粧品の購入にオンラインショッピングを利用する人が増えていることも影響しているという。
韓国では先月30日、マスクの着用義務がほぼ全面解除され、それに伴って化粧品需要も回復すると期待されていた。しかし、オンライン市場の急成長の影響もあってか、厳しい状況が続いているという。
「明洞」という名に込められた「人が多く集まる明るい街」にまで真に回復するにはまだ時間がかかりそうな雰囲気だ。コロナ禍を機に、店側には時代のニーズに合わせるための変革も求められるだろう。
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