この日午前10時から旧朝鮮総督府庁舎前の広場で開かれた「光復50周年の三一節記念文化祝祭」で当時のチョン・ヤンモ国立中央博物館長は経過報告を通じて「本日の三一節を朝鮮総督府庁舎撤去の始まりとする」と宣明した。陽気な手持ちの打楽器“クェングヮリ”を鳴らし、無数の色とりどりの風船が空高く上がった。太極旗を手にしながら踊り、「万歳」を叫ぶ市民たちが祝祭を盛り上げた。
当時のキム・ヨンサム(金泳三)大統領の文民政府は「歴史の立て直し運動」の一環として旧朝鮮総督府庁舎の解体を決定し、この日に宣布式を行なった。旧朝鮮総督府の庁舎撤去は、1948年の大韓民国政府樹立以降、機会があるたびに絶えず推進されてきたことだったが予算などの問題でとん挫したことでもあった。
日本帝国主義の侵略と収奪の象徴だった朝鮮総督府は1916年に着工し、10年間の工事の末、1926年に完成した。初代朝鮮総督だった寺内正毅は敷地選定の時に本来計画していた現ソウル市庁の場所に代わり、朝鮮と大韓帝国の心臓部だった景福宮内に押し込んだ。日本統治をアピールし、朝鮮王朝を侮辱し、民族の精神と気力を抹殺する意図があった。
その結果、朝鮮総督府の庁舎は民が王だった宮を見えないよう朝鮮王室を象徴する景福宮を隠すほどに圧倒的な規模で建てられた。さらに工事の過程で光化門を撤去し、景福宮の殿閣6806のうち4000余りを売却して総督府の建築費用に充当した。当初予想していた費用の2倍以上かけて完成した朝鮮総督府庁舎は、当時の日本本土と植民地を合わせて一番大きな建築物で、東洋一の近代建築物となった。しかし華やかな表面とは違い、朝鮮総督府は民族にとって恥辱と傷を与える空間だった。日本政府は朝鮮総督府庁舎の各地下室に厚さ15センチの重い鉄扉を設け、防音施設を兼ね備えた拷問室まで作った。韓国人の立場として骨身にこたえる歴史の傷を抱えた代表的な“ネガティブ文化財”だったのだ。
朝鮮総督府庁舎は第二次世界大戦終戦後、米軍が接収して使用した。その時、米軍が付けた名前が「キャピタルホール」で、当時の韓国人はこれを「中央庁」と直訳してその名を数十年間使用した。1982年まで政府庁舎として使用され、内部の補修を経て1986年からは国立中央博物館として使用された。
庁舎撤去宣布式以降、実際の解体作業は同年8月15日に始まった。当時のチュ・ドンシク文化体育部(部は日本の省に相当)長官は旧朝鮮総督府庁舎の中央ドーム尖塔分離を前に、解放50年で成し遂げる日本統治の象徴除去を護国英霊に告げる次のような内容の“告由文”を朗読した。「我々民族の言語と歴史を抹殺し、同族の生存まではく奪した植民政策の本山、朝鮮総督府庁舎を撤去し、暗うつだった過去を清算して民族の精気を取り戻し、統一と明るい未来を志向する正宮復元作業と新たな文化通り建設をきょうから始めることを厳粛に告げる。」
その後、大きなクレーンが朝鮮総督府庁舎の尖塔上部を持ち上げ始めると、広場に集まった5万人の市民は一斉に歓呼し、数百発の爆竹が音を響かせた。尖塔がクレーンにかかり地上に移される間、光化門前の行事会場では国立国学管弦楽団が演奏する「再び訪れた光」が厳かに響き、その意味を振り返った。
そして撤去作業は1996年11月に全体の建物を爆破する工法で全てを終えた。1995年3月1日に韓国政府が旧朝鮮総督府庁舎撤去を公式宣布すると、日本政府は移転費用を全て負担して丸ごと購入すると提案し、撤去前に庁舎の最後を見ようと日本人観光客でごった返すという光景もあった。
撤去された尖塔と撤去過程で出てきた部材は、チュンチョンナムド(忠清南道)チョンアン(天安)市の独立記念館の野外に造成された「朝鮮総督府撤去部材展示公園」に移され、そこが一般的な展示公園とは違うのは“放置”をコンセプトにしている点だ。それは独立記念館が、日本統治の残りで民族の恥辱の歴史を展示するものの、冷遇する方式を選んだからだ。朝鮮総督府庁舎の象徴とされていた尖塔が地下5メートルに埋められ、観覧客が上から見下ろせるよう展示されたのも同じ脈絡からだ。
Copyrights(C) Edaily wowkorea.jp 5