大江さんは1935年愛媛県生まれ。54年に東京大学に入学し仏文科で学んだ。在学中に短編小説「奇抜な仕事」で文壇デビュー。57年「死者の奢(おご)り」を発表。58年には戦時中、山村に迷い込んだ黒人兵士とのかかわりを経て成長する少年の姿を描いた短編「飼育」で芥川賞を受賞した。その後も性や政治を主題とした先鋭的な作品を相次いで発表し、脚光を浴びた。
59年に東大を卒業し、60年には安保反対闘争にも参加した。61年に発表した「セヴンティーン」「政治少年死す」は浅沼稲次郎・社会党委員長刺殺事件の刺殺犯を想起させる少年の物語で、物議を醸した。
63年に長男の光さんが知的障害を持って生まれたことが、大江さんにとって一つの転機になった。翌年、自身の内面を掘り下げた長編「個人的な体験」を刊行。以降、光さんの存在は多くの作品に通底する大きなテーマとなった。
67年、代表作となる「万延元年のフットボール」を発表。60年安保闘争に挫折した男らが四国の谷間の村に戻り、過去の農民一揆をなぞるような暴動を起こす作品で、谷崎潤一郎賞を受賞した。83年には、初めて家族を描いた「新しい人よ眼ざめよ」で大佛次郎賞を受賞した。
94年には川端康成に続き日本人としては2人目となるノーベル文学賞を受賞した。川端のスピーチ「美しい日本の私」と対比させた「あいまいな日本の私」と題して講演し、平和への切実な思いを語った。
また、「後期の仕事」として、自らを投影した老作家が主人公の「取り替え子(チェンジリング)」「さようなら、私の本よ!」なども発表。2018年から集大成の「大江健三郎全小説」(全15巻)を刊行していた。
言論活動でも「行動する作家」であり続けた。冷戦と核兵器が世界を脅かす時代を背景に「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」を著し、積極的に平和と反核を唱えた。護憲運動でも評論家の加藤周一氏らと「九条の会」を結成。ノーベル賞決定直後に文化勲章を辞退し、「戦後民主主義と、(国が与える)文化勲章は似合わない」と述べた。東日本大震災後には脱原発を訴え、数万人規模の集会の先頭に立った。
韓国メディアも大江さんが死去したことを伝えつつ、生前の功績をたたえた。東亜日報は、大江さんがノーベル文学賞受賞式の講演で日本によるアジア侵略に言及した点を指摘。さらに95年に東亜日報の講演で開かれたシンポジウム「開放50年と敗戦50年」で詩人の金芝河氏との対談で、「日本は敗戦後、新生のたえに韓国人に謝罪し、過去の罪を清算しなければならなかったが、できなかった」と述べたと報じた。中央日報は2015年に韓国のヨンセ(延世)大学で開かれたフォーラムでの大江さんの発言を挙げながら、大江さんが「日本政府が慰安婦問題に関して韓国に積極的に謝罪しなければならないと促した」と紹介した。また、金氏が1970年代に維新政権に抵抗して投獄された際、「釈放運動を行って韓国メディアの注目を浴びたこともある」と伝えた。聯合ニュースは「韓日の歴史問題についても信念を持った発言を堅持した。2015年に訪韓した際に、日本は韓国に対し大きな犯罪を犯したが、韓国人に十分な謝罪をしていないと批判した」と紹介した。
大江さんの死去を受けて、韓国の大型書店、教保文庫や、インターネット書店のアラジンは14日、ホームページに追悼ページを設け、大江さんの足跡や韓国でも翻訳出版された「万延元年のフットボール」「個人的な体験」など代表作を紹介した。
大江さんの短編集を出版した韓国の出版社、現代文学はフェイスブックに「時代を生きる作家の倫理的姿勢について絶えず自問してきた亡命者、個人的な体験に基づいて人類の救いと共生を力説する世界的作家、大江健三郎先生のご冥福をお祈りします」と追悼メッセージを投稿した。
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