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『マイ・ブラザー』
(原題:우리 형)

チング、ブラザーフッド、そしてビデオリプレイ

家族がバラバラになる時代、あるいは他人が一つの家族を解体することもある、そんな時代。どこかの猟奇的な監督の作品にでもありそうなこういった出来事が、現実に頻繁に起き、“家族愛”への渇望は、映画を通して具現されるようになった。そして皆が“家族”にそっぽを向き出すと、今度は家族愛のサブテーマである兄弟愛や統一問題を扱うようになり、韓国映画会社の多くは、大ヒットを収めた『ブラザーフッド』の成功も、これとなんらかの関係があるだろうと推測している。しかし、“家族”という素材自体が持つ涙と和の情には、本質的に“新しい波”に呑まれやすいという盲点がある。新しい波にのみ込まれないよう、“非現実的な話”をいかに感動的に描き出せるか?『マイ・ブラザー』が挑戦しているのはまさにそれだ。

映画は、タイトルから露骨に兄弟の話だと匂わせている。その上兄弟は“優等生”と“けんか番長”、模範生と問題児という典型的な対称を見せてくれる。では、葛藤と反目した兄弟の理解と和解の話?映画の基本的な設定は、観客の先見的触手に任せている。このような“無鉄砲的”な自信で成功をおさめた例では、クァク・キョンテク作品の『友ヘ チング』が思い浮かぶ。その“クァク・キョンテクライン”に基盤を置いているためか、クァク・キョンテク監督が設立した“チニンサフィルム”の制作で、クァク監督の助監督を務めていたアン・グォンテが監督する『マイ・ブラザー』のストーリーラインは、これでもかというほど、ほとんどの部分が『チング』に似ている。釜山という背景に制服世代、校内暴力シーンや雨の中での襲撃シーンといった、ほぼ同じような要素が盛り込まれている。

しかし、アン・グォンテ監督は、自らのデビュー作を決して単純なコピー作品に止めるつもりはないようだ。監督は『マイ・ブラザー』の個性を生かすために、ウォンビンに手を加える。『ブラザーフッド』に続き、再び弟になったウォンビンだが、今回は“兄”の助演的な役割ではなく、ドラマの核(主役)となる弟だ。生まれつき軟弱な体型で、肝が小さく内向的な兄を演じたシン・ハギュンの演技は満足するに値するが、弟の持つキャラクターに勝ることはできない。少々不自然な釜山なまりに、さらに中途半端な悪口を浴びせるウォンビンは、実際はソフトで気の弱い弟のキャラクターに、自分が持つ繊細なイメージを加え、弟のキャラクターをよりリアルに作り上げた。

弟が話し手として全面に出てくるのは、取り返しのつかない事件によって、対照的な2つのキャラクターのバランスが崩れてからだ。そのため監督は、重点を置く中心人物が観客の感情船の舵を取るためにも、相手キャラクターは必要不可欠だと言う。家族を素材にした映画のほとんどで、“新しい波”が起こるのは、この部分なのだ。そして『マイ・ブラザー』でも、やはりこの波にのみ込まれかける。対立した兄弟が仲直りする瞬間、その時間は長続きせず、残念なことに悲しい記憶として回帰される。監督はウォンビンの演技力(あるいはスター性)に、この“新しい波”的な場面でハラハラするよう、耐え忍ぶ演技を要求し、悲しみの残る典型的な家族映画を完成させた。

20世紀のアナログ的テーマを正面から取り上げてるが、一見の価値がある“クァク・キョンテクライン”は、『マイ・ブラザー』でも相変らず上手に家族愛を見せてくれる。そして、こんなにもありふれた設定と巧みなストーリーテリングを“日々索漠としていくデジタル世代に対する反動”という意味合いで存在させている。そう、こういったジャンルの映画も、デジタル的なテーマを扱った映画の大敵として存在し、また、デジタル映画が補えない部分を扱うことのできる影武者として、今後も共に生き続けていくのである。なぜなら、もう一つの大事なトレンドだからだ。

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