20日、民族問題研究所は、国立中央医療院に入院していた同氏が前日午後5時ごろ、持病によって息を引き取ったと明らかにした。
同氏は1931年10月、チョルラナムド(全羅南道)ナジュ(羅州)市で生まれた。テジョン国民学校6年生に在籍していた1945年2月、日本の富山県にある不二越富山工場に動員された。同氏は過去の陳述書で「工場で旋盤で鉄を削る作業をした」とし「午前6時に起床して午前7時までに工場に出勤し、工場には日本人監視員がいて常に監視されていた」と述べた。
また、「その日に与えられた作業を終えることができなければ、ひどく叱られた。残業してでも仕事を終えなければならなかった。やむを得ずできないときは、その翌日にしたことがある」として、日本企業による搾取の実態を暴いた。
劣悪な環境で賃金も受け取れないまま仕事をしたという同氏は、解放後の1945年10月に故郷に戻ることができた。同氏をはじめとする元徴用工は2003年、不二越を相手に日本の富山地方裁判所に損害賠償訴訟を提起したが、日韓請求権協定を理由に敗訴した。日本の最高裁判所も2011年に上告を棄却した。
元徴用工らは2013年、韓国の国内裁判所に再び訴訟を提起し、ソウル高裁は2019年1月、不二越が原告らに賠償するよう判決を下した。しかし、現在この事件は最高裁で争われており、同氏はついに最高裁の最終結論を見届けることは叶わなかった。同氏の死去によって不二越を相手にした損害賠償訴訟の原告23人のうち生存者は9人になった。
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