盧氏は1946年、金海郡にある果樹園農家の5人兄弟の末っ子として生まれた。高校卒業後に独学で司法試験に合格し弁護士となった。その後、政界に入り、元大統領のキム・ヨンサム(金泳三)氏、キム・デジュン(金大中)氏の下で経歴を重ねた。インターネット世代の支援で2002年の大統領選挙に勝利し、翌2003年2月、第16代大統領に就任した。盧氏は韓国で初めての戦後生まれ(日本の植民地支配を経験していない)の大統領として注目された。
民主化の確立を掲げ、「歴史の見直し」が必要だとして、それまでほぼ封印されてきた1948年の「チェジュ(済州)四・三蜂起事件」の見直しに着手。2003年10月には自ら済州島を訪れ、犠牲者の遺族や島民に国として初めて謝罪した。
対日政策では、就任当初は「未来志向」を掲げ、日本と良好な関係を築いていくだろうと期待された。盧氏は「私たちはいつまでも過去の足かせにとらわれているわけにはいかない」と主張して、対日関係の重要性を強調。2004年7月、日韓首脳の相互訪問「日韓シャトル外交」を当時の小泉純一郎首相との間で始めた。同年7月、韓国・済州島で実施されたのを皮切りに、両首脳はその後、2004年12月に鹿児島県指宿市、2005年6月にソウル市で会談を重ねた。しかし、小泉氏の靖国神社参拝が韓国で反発が強まり、これを機に日韓関係が一気に悪化。シャトル外交は中断した。その後、シャトル外交は復活、中断を経て、今年、岸田文雄首相とユン・ソギョル(尹錫悦)大統領の間で本格的に再開した。
2005年3月、盧氏は独立記念日「三・一節」の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求。以後、対日強硬政策に舵を切り、同年8月には親日派の財産を取り戻すため、「親日反民族行為者財産調査委員会」を発足させた。また、日本統治時代の親日派の子孫を排斥弾圧する法律も施行させた。
2006年には、日本が竹島(韓国名・独島)周辺の日本の排他的経済水域と領海内で海洋調査を実施しようとした際、盧氏は「武力行使もあり得る」とけん制し、調査を中止に追い込んだ。
同年10月には、小泉氏のあとを受けて就任した安倍晋三首相との間で約11か月ぶりに日韓首脳会談が行われたが、盧氏は会談の半分近くを歴史問題に割いたため両国の溝は埋まらず、共同文書も発表に至らなかった。
一方、盧氏は、対北朝鮮政策では金大中元大統領の太陽政策を継承。融和路線を敷き、2007年にはピョンヤン(平壌)を訪問して南北首脳会談を実施した。
盧氏の退任後、側近や親族が不正献金疑惑で相次いで逮捕される事態となり、盧氏自身も捜査対象となった。
2009年5月23日、盧氏は投身自殺を図り、62歳で生涯を閉じた。突然自ら命を絶ったことに韓国では衝撃が広がり、各放送局は一般の番組を中断して特別番組を放送した。
今月23日、盧氏の死去から14年となり、追悼式が開かれた。盧政権でも首相を務めたハン・ドクス首相や与野党の政治家、市民らが出席した。ムン・ジェイン(文在寅)前大統領の姿もあった。ハン首相は追悼の辞で「盧元大統領が夢見ていた『平和と繁栄の北東アジア時代』に向けた歩みが、絶え間なく続いている」と述べた。
一方、野党「共に民主党」のイ・ジェミョン(李在明)代表は追悼式に出席後、記者団に対し、「盧元大統領が我々のそばを離れてからすでに14年になった。民主主義が退行し、盧元大統領が夢見た歴史の進歩は止まり、過去に後退しているかのようだ」と嘆き、現政権を批判した。また、同党の報道官は、「韓国社会が直面する無数の対立の中で、盧元大統領が示した『統合と原則の価値』を思い起こす」とした上で、「国民統合と共生の価値を胸に刻み、盧元大統領の歩みを忘れない」と強調した。
かつて保守勢力だけでなく、身内の革新勢力からも批判され、「失敗した大統領」の烙印(らくいん)を押された盧氏だが、近年では歴代大統領中、信頼度で首位に浮上するなど、再評価の動きが広がっている。23日の追悼式には、主催した盧武鉉財団の発表で約4500人が参列。追悼に訪れた人も含めると約7000人に上り、改めて存在感の大きさを示した。
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